平等という不幸

 全国民に、バナナとオレンジをそれぞれ1本ずつ与えたとする。これはたしかに平等である。しかしそれですべての人が幸福かというと、そうではない。なぜなら人にはそれぞれ好みがあり、バナナが大きらいだという人もいるからだ。
 そんなAさんにとってはバナナなんかもらっても迷惑なだけである。そこでバナナが好きなBさんにバナナを与えて、代わりにオレンジをもらえばどうか。AさんもBさんも好きな果物が倍に増えてハッピーになる。しかも、この二人の間の交換は他の人には何の影響も及ぼさないから、誰も損失を被ることがない。
 ある資源配分から別の資源配分への移行によって、社会における誰の状態も悪くはならず、少なくとも一部の人の状態はより良くなるならば、この移行は明らかに「人々の福祉を高める」という目的にかなったものである。経済学でこれを「パレート改善」という。(蓼沼宏一『幸せのための経済学』より)
 この考え方のおもしろいところは、社会における誰の状態も悪くしない、という点である。こういうカセがあるため、たとえば大金持ちの独裁者を倒してその富を貧しい民衆に分け与えれば、人々の福祉は高まるではないか、という考えは否定される。なぜならこれによって独裁者の状態は悪くなるからである。
 キリストが十字架で磔になることによって、人々の罪が赦されたとしても、それによってキリストの状態は悪くなる。ソクラテスが毒杯をあおることによって、人々に知恵がもたらされたとしても、それによってソクラテスの状態は悪くなる。だからこれらは「パレート改善」とはならない。
 さらに考えを進めれば、誰の状態も悪くしないというのはけっこう困難なことだ。たとえばすべての成人男性に、女性を割り振ってみんなが結婚できる社会ができたとする。ところがA男さんはゲイだから、女性との結婚を望まない。そこで女性が好きなレズのB子さんと互いのパートナーを交換して、同性婚をすればハッピーになれるはずだ。理論上はこの交換によって誰も損失を被らないはずであるが、はたしてそうだろうか。どこか納得できないと思う人がいるなら、やはりその人はこれによって自分が何らかの損失を被ったと思っているのだ。
 すべての人が働いて自立できる社会ができたとする。しかしA子さんは働くのがきらいなので、B男さんと結婚して養ってもらうことにする。B男さんは働くのが好きなのでA子さんがやっていた仕事も引き受ける。世帯収入は変わらないが、好きなことをやれるので二人の福祉は高まる。これによって誰にも損失を与えずに、この夫婦は幸福になれるはずであるが、はたしてそうであろうか。誰もが平等に働いている社会で、一人だけ働かないのである。白い目で見られるだろう。
 みんながバナナとオレンジをそれぞれ1本ずつもらっている社会で、バナナを2本、手に入れる。それを許せないと思うほどに、われわれは平等という思想に縛られているのではないか。