赤い飛行船と若者の代弁者

 テレ朝の『題名のない音楽会』でジミー・ペイジの特集をやってたんだけど、レッド・ツェッペリンのことを、Red(赤い)Zeppelin(飛行船)だと思っている人が多いが本当は、Lead(鉛の)飛行船という意味だと説明していた。ウィキペディアによると、Leadをさらに、Ledに変えてバンド名にしたそうだ。
 それで思い出したが、中島梓に『赤い飛行船』(講談社)というエッセイ集がある。このタイトルにした理由を、担当編集者(文中では「少年」「彼」)に説明するくだりがある。

 しかたなく、私は説明した。
「青い宇宙船ってのはね、モジリなの。あのね、赤い飛行船だからさ」
「赤い飛行船?」
「そう、レッド・ツェッペリン……そのまんまじゃあんまりストレートだから、ひねって、青い宇宙船……」
「赤い飛行船……」
 少年は、全部「桑田佳祐」の顔になると、満足げに笑った。
「それでいいよ」
 そう、彼は言ったのである。
 それで、このエッセイのタイトルは、「赤い飛行船」である。
 なんで、レッド・ツェッペリンなのか、なんでピンク・フロイドキング・クリムゾンでないのか、にはとりたてた意味がない。バンドとしては、私は、ディープ・パープルの方が好きだ。レッド・ツェッペリンのグルーピーである、ということもない。
 もっとも「レッド・ツェッペリン熱狂のライブ」はちゃんと見た。
(P13-14)

 ハードロック・ファンを自称していた中島梓としては、痛恨の失態であろう。(ついでに書けば、「とりたてた意味がない」は「とりたてて」の誤植か)。それにしてもこれだけ堂々とまちがっているのに、まちがいを指摘してやる者はいなかったのか。いなかったのだ。なぜか。
 ハードロック・ファンは中島梓など読まなかったからである。
 中島梓は、ようするにジェネレーションギャップを利用した作家であった。作品の中にハードロックなどの若者文化をちりばめていたが、その読者層はオヤジかおばさんか少年少女であった。いわば相手の無知につけ込んで、「ハードロックなどの若者文化にくわしい私」を売っていたわけだ。べつにいまさら中島梓を批判しようというのではない。
 ゼロ年代とやらの批評家がやっていることもこれと同じである。昭和世代とゆとり世代の無知につけ込んで、若者の代弁者を気どる。かつてのレッド・ツェッペリンが、AKB48Twitter、に変わっただけである。