いじめを見たらすぐ通報

 内藤朝雄『いじめ加害者を厳罰にせよ』を読む。著者の提言には、ほとんど賛成である。
 いじめられたら、警察に通報せよ。いじめるやつらは赤の他人、敵である。遠慮する必要などない。法によって徹底的に処罰されるべきだ。そのためには警察が動きやすいように、いじめられた証拠を記録しておくこと。警察が被害届けを受理しないようなら、弁護士に相談しよう。
 いじめには二種類ある。「暴力系」のいじめ(殴る、蹴る、衣服を脱がせる、など)と、「コミュニケーション操作系」のいじめ(シカトする、悪口を言う、嘲笑する、デマを流す、など)である。「暴力系」のいじめは、警察の介入で対処できる。しかし、「コミュニケーション操作系」のいじめには、根本的な対処法がない。いじめの被害者が自殺し、遺族が訴訟を起こして敗訴するケースが多いのも、「コミュニケーション操作系」のいじめである。証拠が残りにくい。だからここでも、証拠を記録して残すことが重要である。それで警察や弁護士に相談する。
 教師は、あてにならない。なぜなら「教育」教に洗脳されているからである。学校は聖域化している。そこでは市民社会のルールが通用しない。学校内で、殴る、蹴る、の暴行があっても、教師は決してそれを暴行罪・傷害罪に該当する犯罪とはみなさず、「じゃれあっている」「プロレスごっこ」などと考えるよう洗脳されている。学校は聖域であるから、警察の捜査という「市民社会の法やルール」が入るべきではない、というキチガイじみた感覚に支配されている。神聖なる教育の場である学校を、「法」なんかで冒涜するな、という理屈である。
 外部からのチェックが働かない聖域としての学校は、治外法権となっている。たとえば町の中で人が殴られているのを目撃すれば、誰もが警察に通報する。暴力をふるった者は、法によって処罰される。それが市民社会のルールである。それなのに学校の中では、どうしてそれができないのか。いじめが野放しにされ、誰も裁かれることなく、やりたい放題となるのか。
 著者の主張は、そこを正せといっているのである。学校の聖域化をやめて、違法行為には警察を介入させ、市民社会のルールがあたりまえに適応される場にせよ、というのである。本書のタイトルはいっけん刺激的だが、その提言はいたって真っ当である。もちろん、小中学生が警察に通報できるか、といった問題はあるが、まずは周りの大人たちがこういう知恵を持つべきである。
 この本ではマスコミ報道も批判されていて、自殺が起こるたびに有名人を使って「死なないで」というメッセージを送ることは最悪だという。なぜなら、「死なないで」という強いメッセージの働きによって、いじめられてつらい思いをしている生徒は、「そうか、自分の置かれている状況は、死ぬか生きるかなんだ」と、かえって生死の問題に誘導されてしまうのだ。「死ぬ」よりほかに、いっぱい解決法はあるのである。警察、弁護士に相談しよう。それなのに、「死なないで」というメッセージのせいで、かえって強く「死」ということを考えるようになる。そして、自殺する、のである。
 いじめ自殺が起こるたびに「死なないで」とメッセージを送るマスコミ、電波芸者どもよ。おまえらが殺してんだよ。

いじめ加害者を厳罰にせよ (ベスト新書)

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いじめの直し方

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