村上春樹はなぜ芥川賞を逃したか

 読売新聞の「編集手帳」に、こういうことが書いてある。丸谷才一について。

 合唱も打ち負かす伝説の大声をじかに浴びたのは、3年ほど前である。食事をご一緒した折、質問をした。村上春樹さんの小説が芥川賞の選に漏れたとき、丸谷さんは選考委員でしたね。いま顧みて、「しくじった!」という感想をお持ちですか?
「僕が! 僕が、ですか?」。空気が震え、グラスのワインが波立った。「Aだ」。丸谷さんはある作家の名前を挙げた。「Aが村上の才能を恐れて受賞に反対した。僕と吉行(淳之介)はAに抵抗したが、力が及ばなかった」

 さて。このAとは誰か? 大江健三郎村上春樹を嫌っていたというようなことを言う人がいるが、「一九七三年のピンボール」が候補になったときには、「それはもう明らかな才能というほかにないであろう」とほめている。まあ、こう書いておいて裏では受賞に反対したということもあり得るが、そこまでかんぐれば誰だってあやしい。この時の選評では、瀧井孝作中村光夫井上靖が辛い評価をつけ、安岡章太郎開高健丹羽文雄遠藤周作が無視。で、けっきょく誰だかわからない。
 丸谷才一が死んだあとに、こんな話を書く新聞記者もどうかしている。丸谷の話が本当なのかどうか、もう確めようがない。Aにだって言い分があろう。事実なら、Aに直接問いただすのが取材というものではないか。(まてよ、Aもすでに死んだ作家かもしれないな)
 思い出話ですませていい問題ではない。

 同じ紙面に、辻原登丸谷才一の追悼文を書いている。

 怒る丸谷さんの想い出をひとつ。十四年前、私がある文学賞を受賞した時のこと。その年、小説部門の受賞者は二人だった。六つの部門があって、授賞式での挨拶は各々、三分以内でと主催者から言い渡されていたのにだが、最初に立った小説家の挨拶が二十分を超えてしまった。数百人の出席者はみな立ったままである。会場が騒めきだした。ようやく終わって、次が私の番。私は用意していたとおりの三分間のスピーチを行った。

 そしたら二次会で、丸谷才一に大声で怒られた、という。

「きみのあの挨拶は何だ! ああいうスピーチのあとは、ありがとうございました、の一言で引き下がるべきだ。それが批評というものだ。きみには全く機知も批評も欠如している」

 とまあ、全く機知も批評も欠如した追悼文であるが、さて、こちらの長々と挨拶をした小説家は誰か。十四年前の受賞とは読売文学賞辻原登とともに受賞したのは、小川国男。すぐわかることを、どうしてぼかして書くのか。
追記
村上春樹の受賞に反対したのは瀧井孝作だってさ。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/haruki-akutagawa1.htm

かえるくん、東京を救う (HARUKI MURAKAMI 9 STORIES)

かえるくん、東京を救う (HARUKI MURAKAMI 9 STORIES)

koritsumuen.hatenablog.com