なぜか僕はドキュメンタリーを見る

 想田和弘監督の『精神』を見る。前作の『選挙』がおもしろかったものだから手を出したのだが、やや期待外れ。精神科診療所の患者たちのドキュメンタリー。
 精神病患者を見世物にしているという批判は当然あるだろうが、患者たちはみんなカメラで撮られることを承諾している。ということは、同意できるだけの「正常」さを持った患者たちである。開放治療ができる患者であるし、見たところそれほど重症ではなく、この程度なら近所にもいるなあ、と思った。タブーにカメラを向けたということだけが過大に評価されると、本当のタブーが見えなくなる。たとえば、山本譲司累犯障害者』に取り上げられた人たちのように、福祉制度からも見捨てられた障害者は、本編には出てこない。
 それゆえ、優しいおじいちゃん医師がいる閉鎖病棟のないこの診療所が、患者たちにとってのユートピアであるかのような別種の偏見が形成されそうだ。
 説明的なナレーションもテロップも入れない「観察映画」のスタイルは、映像をじっくり見せるが、やはりそれだけでは情報不足。『選挙』でも、自民党公認候補となった「切手コイン商」の男性は、「東大に五浪して入り、授業に一切出ないで三回留年。妻とはネットで知り合い、北朝鮮に新婚旅行に出かけた」、という経歴であることは、想田和弘監督の『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社新書)を読まない人は、知らないままだ。
『精神』においても、患者たちの経歴は、本人が映画の中で語ったこと以外は、わからない。ラストに「追悼」というテロップが唐突に出て、三名の出演者(患者)が亡くなったことを知らされる。彼らはなぜ死んだのか。
 それが知りたくて、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』を読んだのだが、想田監督は、映画を理由に誰かが自殺したことはない、と書いている。しかし、いったんは撮影に同意はしても、公開直前に、「初日に自殺します」と言い出した患者はいたようであるし、撮影から編集までの短い期間に三人もの出演者が亡くなっているのは不穏なものを感じる。医師にも責任はないか。
 日本の場合、ドキュメンタリー作家は原一男のように、個人のプライバシーを暴く「悪党」と考える人が多く、一方アメリカではマイケル・ムーアのように、世の中の不正を暴く「正義の味方」と考える人が多いという。マイケル・ムーア原一男の影響を受けているのだが。
 本編を見たあとで、DVDの付録にあった予告編を見たのだが、これはBGMとテロップ付で、患者たちの露骨なシーンばかりを集めた精神病患者に対する偏見に沿ったものであった。売らんがため、に易々とこういう編集もできるのだとすると、この監督はなかなかの悪党である。


精神 [DVD]

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