落語は笑えない

 広瀬和生『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)を読む。
「寄席は面白くない」のではない。「面白いときもあるし、そうでないときもある」。面白い落語家を教えるから、寄席に行け。と著者は書く。だとすると、本書は評論ではなく、ガイドブックか。しかし、紹介されている落語家が、立川流ばかりで、げんなりする。
 おもしろい落語家の条件が、「人気」であるなら、観客動員数の多い落語家が、すなわち名人となる。なるほど、これなら「評論」はいらない。しかし、人気はあるが、笑えない落語家というのもいる。「笑えない」というのは言葉の通りで、深い意味ではない。
「数年来の談志嫌い」という青木るえかさんほどではないが、おれも立川談志の落語では笑えない。それなのになぜ聴くかといえば、あれは名人芸だと言われるからである。
 それで広瀬和生も、談志は名人だと書いている。しかし、素人のおれからすると、名人かもしれないが、笑えない。桂枝雀のほうが、よほどおもしろいし、笑える。名人芸なんか知るか、快楽亭ブラック (2代目)は、おもしろい。
 そもそも落語などを聞くやつは、反権力、反権威の性向がある。大衆に人気がある落語家が一番だ、おもしろければそれでいい、評論家が持ち上げる名人なんぞクソ食らえ、と言いたいならそれを貫けばいい。 
 ところが、反権威を標榜する者こそ、権威をほしがる。談志は名人だと持ち上げる。名人という権威を持ち出してくる。人気のある落語家には、芸がある、という。志の輔談春を見ろ、という。しかしそれは、おニャン子クラブにおける城之内早苗のようなもので、その他のおニャン子は人気があっても歌は下手だった。人気のある落語家が、現代の名人であるという単純な図式は成り立たない。おれを含めて一般客に芸のよしあしなど、わからない。芸がなくても、バカをやられたら笑う。
 安藤鶴夫は昭和二十四年、『落語鑑賞』(苦楽社)のあとがきで、次のような指摘をして、昨今の風潮を憂いている。

1 おかしければそれでいい、という<面白主義>の観客たち
2 批評の皆無
3 一人漫才然とした大道芸の落語家がラジオや名人会と称するものの大看板になっていること
4 本筋の落語の芸が、二三のすぐれた人たちの死によって、たちまち消え去るであろうこと

 ぶっちゃけて言えば、落語というのは、おもしろいのだろうか。べつにおもしろくなくても、いいじゃん、能のように伝統芸能として残せば。