「愛こそすべて」ではない

 愛さえあれば、世界から争いがなくなるとか、人が幸福になれるとか、主張する人がいるが、大きなまちがいである。愛にも、いろいろなものがある。
世界で一番美しい夜』という映画では、世界平和のために縄文人の性欲を研究する元過激派というのが出てきて、ついには、縄文人が使っていた媚薬というのを発見して、それを村中にばらまく。すると、村の男女が発情してところかまわずセックスをしまくる。それは誰一人争うことのない「世界で一番美しい夜」だというのである。
 バカバカしい。
 自分の愛する妻や恋人や、母や娘が、他の男とセックスするのを見て喜ぶ男がいるか? 自分の夫や息子や父親が、他の女とセックスをするのを見て、傷つかない女がいるか?
 人はそれほど、野蛮ではない。
 なぜこうしたバカげた考えが生まれてくるのかというと、「愛」という言葉に原因がある。男女の愛も、親子の愛も、隣人愛も、人類愛も、あるいはペットの犬猫を愛するのも、ラーメンを愛するのも、なんでもかんでも「愛」だ。
 これらはそれぞれちがった感情のはずなのに、全部が同じ「愛」という言葉になってしまっている。それをしたのは、西洋人である。本来は別々のものを、ひとつにしたのである。
「愛」とは何か、と問いたいのなら、まずそれは何に対する「愛」なのかを明確にしなければならない。自分の親や子への愛情と、恋人への愛情とでは、ぜんぜん意味がちがう。ましてペットやラーメンであるならば。
 セックスなどしなくても、人を愛することはできる。人類愛とは、そういうものである。
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 セックスだけが愛だと思い、相手をとっかえひっかえセックスしている者もいるが、これもまた愚かである。
 次々に恋愛の相手を変える女性タレントなどを、芸能週刊誌は、「恋愛至上主義」などと形容する。しかしこれは言葉の誤用である、と呉智英は述べている。
 では、本来の「恋愛至上主義」とは、いかなるものか。

恋愛至上主義」とは、別名を「哲学的恋愛」とか「理性的恋愛」と仮称する自己修養的な恋愛のことである。一人の異性を哲学的に愛することによって、自己の人格を高めるという一種の禁欲主義のことである。
 恋愛の相手を次々に変えることはその対極にある。つまり、正反対のことを芸能週刊誌などは「恋愛至上主義」と呼んでいるのだ。
 本来の意味の恋愛至上主義が登場したのは、日本では明治になってからのことであった。北村透谷、国木田独歩、といった若き文学者が、恋愛に積極的な価値を見出したのである。
(引用元、斉藤なずな『千年の夢』小学館文庫/解説・呉智英/P376-7)


 相手をとっかえひっかえセックスしたところで、人格が高まるわけがない。そんなことは、石田純一玉置浩二を見れば、わかろうものである。