違法なダウンロードの増加により、音楽業界では、CDだけでなく、ダウンロードまで売れなくなっているという。音楽業界誌『オリコン』の小池恒社長は「“音楽はタダ”という間違った認識が蔓延している」と語っている(産経新聞5月7日)。
しかし、いまさら嘆いたところで、この傾向はどんどん進み、音楽のつぎは書籍や新聞が餌食となり、いずれはすべての情報をタダにせよ、となるのだと思う。
こうなった原因として、リナックスにみられる「オープンソース」の考え方が挙げられる。1991年、一人の天才ハッカーが提唱したOSのアイデアがインターネットで公開され、そこから世界中の人たちがネットを通じて意見とアイデアを出し合い、またたく間に高性能なOSを作り上げてしまった。それが、リナックスOSである。
このOSを発明したリーナス氏は、これで億万長者になれたのにもかかわらず、それをせずにネットで無料公開した。すぐれたOSが無数の人々の協力によって進歩することの方が、自分ひとりが大富豪になることより、ずっと大事なことだと考えたのだ。
リーナス氏は自分が発明した作品についての「著作権」を放棄し、これをネット上に無償で配布し、どう享受しようと、どう改作しようと、どう引用しようと、すべてはユーザーの自由だとやったわけだ。ここから近代的な「著作権」という概念に代わり、オープンソースという考え方が生まれる。それを簡単に言えば、私たちにとって有益な可能性のある情報は、誰でもが無条件かつ全面的にアクセス可能でなければならない、というものである。
ネットの黎明期には、こうした思想が新時代の幕開けのように、もてはやされ、いまなおおおぜいの信奉者がいる。しかし少し頭を冷やして考えてみれば、こんなものは財産の共有化にすぎない、と気づくはずだ。私有財産を否定し、すべてを共有する、つまりは共産主義の思想にすぎない。
リナックスOSのようなものが、なぜタダで開発できたのか。それはボランティアという名のタダ働きの技術者が、おおぜい参加したからである。悪い資本家は、奴隷を低賃金で働かせるために、暴力をふるう。もっと悪い資本家は、奴隷がみずから進んでタダ働きするように、せしめる。そういうことだ。
さらに、OSの利用者のほとんどは、その開発に参加できるほどの知識も技術も持たず、対価すら払わず、もっぱらその恩恵を享受するだけである。タダ働きの労働者と、タダ乗りの乞食、こんなもので経済が回るはずがない。しかしすべては共有なのだから、うまくいくはずだ、と考えるのが共産主義者である。
共有の土地で、共有の果実を育て、それをみんなで分かち合う。なんとも美しい理想である。ネットの中にはいまなお、共産主義者の亡霊がさまよっている。
◇
内田樹は、ロラン・バルトの「作者の死」という思想を解説しながら、オープンソースについて次のように書いている。(『寝ながら学べる構造主義』文春新書より)
古典的な意味でのコピーライトは、インターネット・テクストについてはほとんど無意味になりつつあります。音楽や図像についてコピーライトの死守を主張している人たちがいますが、その人たちもむしろ自分の作品が繰り返しコピーされ享受されることを「誇り」に思うべきであり、それ以上の金銭的なリターンを望むべきではない、という新しい発想に私たちはしだいになじみつつあります。(P131)
作家やアーティストたちが、コピーライトを行使して得られる金銭的リターンよりも、自分のアイディアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方のほうに私自身は惹かれるものを感じます。
それがテクストの生成の運動のうちに、名声でも利益でも権力でもなく、「快楽」を求めた(ロラン)バルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われるからです。(P133)
じつに立派で清廉なお考えである。この著者はこんなことを書くくらいだから、自分が書いた原稿に対して、金銭的リターンを求めないのだろう。誰もがそう思うはずである。しかし実際はちがうようだ。
内田樹は『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で、こう述べている。
ロラン・バルトがその「作者の死」で、テクストの「創造者=統御者」としての「オーサー」というのは近代が作りだした幻影にすぎないときびしく告発してからそろそろ四十年が経過する。バルトのテクスト論は私たちの時代の「定説」であり、大学院生向けの文学理論の解説書にはちゃんと「テクストはオーサーのものではありません」と書いてある。それにもかかわらず、依然として私たちの社会では「作家」はその「作品」についての独占的な「オーサーシップ」や「コピーライト」を保持している。
私自身もバルト理論を正しいと思い、「コピーライツなどというものは誰によっても占有しえないものである」とあちこちに書いてきたが、その原稿料や印税の受け取りを拒否したことはない。
それはつまり、この理論は正しいけれど、現実からは乖離しているということを意味している。(P98-9)
コーヒー吹いた、とでも書いて茶化しておくのが、この著者に対する正しい接し方なのであろうか。なぜ正しい理論を実践しないのか。現実から乖離している理論は、そもそも正しいのか。
「あとがき」によれば、この本の、もとになったのは、2004年度後期の神戸女学院大学での講義ノートである。内田氏は同大学の教授であるから、この講義によって給料を得ている。
その講義ノートを2005年の1月号から9月号まで『文学界』に連載した。原稿料を拒否したことはないのであるから、ここでも金銭的リターンを得ている。この原稿はまとめられて文春新書となり、ずいぶん売れて、多額の印税を得ている。さらにこの本は、小林秀雄賞を受賞して、賞金は百万円である。
まさにコピーライトを行使しての、すばらしき金銭的リターンである。
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