「ぐるりのこと」的なもの

 一部で評価の高い映画『ぐるりのこと。』を見たのだが、期待はずれだった。
 リリー・フランキー木村多江が、夫婦を演じている。やがて妻は妊娠するのだが、生まれてきた子供はすぐに亡くなる。その死亡理由は映画では説明されない。子供の位牌が写され、その直後のシーンで幼女連続殺人事件の犯人が出てくるので、俺はてっきり、この犯人に殺されたのだと思った。しかし事件とは無関係で、おそらくは病気か事故で死んだのだろう。それで妻は、うつ病になる。
 見過ごされていることだが、その後、妻が産婦人科に行き、中絶の同意書を提出するシーンがある。ということは、第一子が亡くなったあと、この夫婦はまた子宝に恵まれたのだ。しかし妻は、おそらく夫に無断で中絶をする。この心情が、まずわからない。
 産めばいいではないか。最初の子供が死んだことはショックだったろう。それなのになぜ、次の子まで堕胎する必要があるのか。うつ病になり、子供を育てる自信がない、というならなぜ避妊をしないのか。看護婦との会話から、おそらく妻は妊娠の事実すら夫に告げぬまま、中絶したのだろう。それでも夫とのセックスは続けていたのか。なんという夫婦なのか。こんなものが夫婦愛なのか。
 しかもこの夫というのが、無類の女好きで、妻の家族と食事中にも、隣のテーブルのOLを口説くような男である。職場の女性記者とか、美術教室の生徒とか、見境もなく手当たりしだいにナンパをしている。妻が嫌がるアナルセックスまで強要している。妻もまた友人に、「女性関係で苦労しそうだけど」などとしゃべっている。それで妻の病状がいよいよひどくなり、パニックで泣き叫びながら「どうして、私と一緒にいるの?」と問われた夫が、「好きだから」などと言うのだが、さんざん浮気をしてきた男のこんなセリフに何の説得力があるものかと思うのだが、夫婦は抱き合ってあれよあれよと仲直りをするのである。
 木村多江の演技はうまいが、こういうのを悪達者というのだ。うつの演技にだけリアリティーがあり、法廷場面の描き方などマンガである。モデルとなっている事件の関係者があんなシーンを見たら、それこそ鬱になるであろう。凶悪犯罪の被害者の救いのない人生に比べたら、この夫婦の問題など、どれほどのことか。
 この妻は第一子を亡くしたものの、つぎの子供は自分の意志で堕胎したのである。生まれてくるはずの赤ん坊を殺したのである。うつ病ならそれが許されるのか。この監督がそういう立場であるなら、法廷シーンは悪意に満ちている。キチガイに殺された人たちは救われない。
 そのくせ、妻は小さなクモが死んだと言っては、わあわあ騒ぐのだ。命の大切さに気づいたのなら、なぜ実家に戻った時に、小魚のてんぷらを揚げているのか。クモの命は守るけど、小魚のてんぷらは食うのか。赤ん坊は堕ろすのか。たしかに精神を病んでいる。
 それから「とんかつ屋」の店員が、みそ汁にツバを入れて客に出すという不快なシーンがあるのだが、これを実在の店でロケして、しかも看板の店名をそのまま撮影している。監督はこの店に、うらみでもあるのだろうか。
 この映画が描いているのは、うつになった女性の狂乱ぶりだけだ。夫婦の関係など何も描かれていない。妻は夫に、堕胎したことを話したのか。それとも秘密にしたまま、十年を生きてきたのか。それが夫婦愛か。
 法廷画家をしている夫は、テレビのディレクターから「親に虐待されて入院している子供の姿を描け」と言われて、「できない」と断り、怒る。では、自分の妻が堕胎した子供のことをどう思うか。それでも妻を許すか。愛していると言えるか。かわいそうな他人の子供には同情するが、自分が遊んで捨てた何人もの女たちには同情しないのか。
 妻の周囲にいる人たちの描き方もひどい。世の中にはひどい事件ばかりで、まわりはひどい人たちばかりで、美しい心を持っているのは私だけ、とでも言いたいのだろう。
 サイン会を開いている女性作家のシーンでは、店員が客に「本当の愛を知っていますか」と語りかけ、熱心なファンが涙ながらに感想を語る。橋口亮輔監督はDVDのコメンタリーで、このシーンを「きもちわるい」と語っている。それならば、この映画のラストはそうしたスピリチュアルなものと、どれだけちがうのか。
 瀬戸内寂聴みたいな尼さんが出てきて、妻はそれによって癒され、夫婦の「本当の愛」に気づくというのであれば、女性作家とそのファンの関係と同じだ。あやしげなオカルトが仏教になっただけである。
 こういう映画に涙する善人にも、困ったものである。

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