豊かさという罪

読売新聞に、辻井喬堤清二)氏が、『叙情と闘争・堤清二回顧録』を連載している。

これが、わりにおもしろい。

辻井氏の父親は、西武グループの創業者・堤康次郎

大企業の御曹司でありながら、辻井氏は東大入学後、共産党に入党、積極的な活動を行う。(その後、党から除名)

恵まれた環境にある者が、なぜ共産主義を信奉し、反社会的な活動家となるのか、と思われるだろうが、むしろ、恵まれている者ほど、そうした社会運動にのめりこみやすい、とおれは思う。

1970年の大学進学率が、24.2パーセント。

60〜70年代にかけての安保闘争に参加した大学生というのは、今とはちがって、本当の意味でのエリートであったろう。

エリートといえども、もちろん悩むことはある。中卒の労働者の悩みが、金が欲しいとか、モテたいとか、そういう即物的な悩みだとすれば、エリートやインテリの悩みは、もう少し哲学的なものとなる。

自分が恵まれているということは、どこかに恵まれない人がいる。自分の豊かさや幸福は、彼らの犠牲のうえに成り立っている。そのことに耐えられなくなった者は、左翼運動に、傾倒していくのではあるまいか。

その先鋭的な例が、連合赤軍ではなく、連続企業爆破事件を起こした「東アジア反日武装戦線”狼”部隊」であったと思う。

東アジア反日武装戦線”狼”部隊が書いた、『腹腹時計』という書物がある。映画『バトル・ロワイアル』で言及されていたのを覚えている人もいるだろう。

彼らの思想の骨子は、その序文にはっきり示されている。以下引用。

日帝は、36年間に及ぶ朝鮮の侵略、植民地支配を始めとして、台湾、中国大陸、東南アジア等も侵略、支配し、「国内」植民地として、アイヌ・モシリ、沖縄を同化、吸収してきた。
われわれはその日本帝国主義者の子孫であり、敗戦後開始された日帝の新植民地主義侵略、支配を、許容、黙認し、旧日本帝国主義者の官僚群、資本家共を再び生き返らせた帝国主義本国人である。
これは厳然たる事実である、すべての問題はこの認識より始めなくてはならない。

日帝は、その「繁栄と成長」の主要な源泉を、植民地人民の血と累々たる屍の上に求め、更なる収奪と犠牲を強制している。

そうであるが故に、帝国主義本国人であるわれわれは「平和で安全で豊かな小市民生活」を保証されているのだ。日帝本国に於ける労働者の「闘い」=賃上げ、待遇改善要求などは、植民地人民からの更なる収奪、犠牲を要求し、日帝を強化、補足する反革命労働運動である。

海外技術協力とか称されて出向く「経済的、技術的、文化的」派遣員も、妓生を買いに韓国へ「旅行」する観光客も、すべて第一級の日帝侵略者である。
日帝本国の労働者、市民は植民地人民と日常不断に敵対する帝国主義者、侵略者である。

(以下略・ネットで探せば全文読める)

父の堤康次郎が死去すると、堤清二が継承すると思われていたその地位は、異母弟の堤義明が継いだ。

小説家・詩人の顔を持つ堤清二と、西武王国のワンマン社長・堤義明とを比較すると、まあ、多くの人は、文化人としての清二氏の態度に、共感を覚えるであろう。

吉永小百合は、「永遠のマドンナ」と呼ばれ、団塊世代の、左翼インテリの人気が高いが、それは映画で左翼の理想像を演じることが多いからでは、あるまいか。(『戦争と人間』、『母べえ』では、政府から弾圧される左翼運動家の、恋人・妻役)

しかし実生活において、交際するのは、堤義明のような大金持ちである。

まあ女というのは、いや女優というのは、そういうものであろう。