太宰治、吼える

太宰治は、エゴイズムとルサンチマンの作家であったと、おれは、考えるわけでございます。

エゴイズム(利己主義)

心中ごっこの果てに、女が死んで、自分だけ生き残ったわけですが、おそらく、太宰は、最初から、そうなるように計算してたんです。
「ワザ。ワザ」
大悪党ですよ、こいつは。

ルサンチマン(怨恨)

『如是我聞』における攻撃のパトスは、聖書におけるイエスのそれと、通じています。
つまりは弱者が、支配者や強者に向かって、内心に溜め込んだ憎悪や、ねたみをぶちまける、その心情。
以下、『如是我聞』から引用。

他人を攻撃したって、つまらない。
攻撃すべきは、あの者たちの神だ。
敵の神をこそ撃つべきだ。
でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。
ひとは、自分の真の神をよく隠す。

みじめな生活をして来たんだ。
そうして、いまも、みじめな人間になっているのだ。
隠すなよ。

志賀直哉というのが妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、この雑誌の先月号の小論に、附記みたいにして、こちらも大いに口汚なく言い返してやったが、あれだけではまだ自分も言い足りないような気がしていた。

いったい、あれは、なんだってあんなにえばったものの言い方をしているのか。

普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。
王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。
旦那芸の典型である。

勝つか負けるかのおののきなどは、微塵もない。
そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。
どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。


こういった威勢のいい啖呵を読むと、『人間失格』などの、へなちょこぶりは、しょせん演技かと思いますが、それにしても大悪党ですよ、太宰は。

小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。
(『川端康成へ』より)