原爆投下は正しかった

 アメリカ西部ワシントン州リッチランドに留学した高校生が、その高校のロゴマークがキノコ雲であることに驚き、それについての違和感を動画で訴えた、というニュースがあった。
 リッチランドは、長崎に投下された原子爆弾プルトニウムを生産していた。戦後も核関連の産業が盛んで、「原子力の町」とも呼ばれ、多くの住人はその歴史に誇りを持っている。
 この町に限らずアメリカ人の多くは、原爆投下によってあの戦争を終わらせることができた、という考えを持っている。原爆を落とされた側からするとなんとも嫌な気分になるが、我々はこれを否定する論理を持たない。だから被害を強調し、感情論に訴えることしかできない。
 三浦俊彦の『戦争論理学』は、原爆投下の是非を論理的に考察した良書である。「被爆者のことを考えても原爆投下を肯定できるのか?」という問いに対し、著者は次のように答えている。

「原爆投下は正しかった」とだけ言われると、あの戦争下では、という限定条件を抜きにして、ただ「原爆投下」が善だったかのように受け取られ、核兵器使用を公認した物言いに聞こえてしまう。そうではなく、「原爆投下は善かった」と評価されるべき前提条件を補って考えねばならない。当時の国際情勢、戦局を総合的に見た上で、善悪を判定するのだ。
 平和時には(アプリオリには)悪であることが、戦争時という特殊な条件下では善になることもある。そう考えると、「原爆投下は正しかった」はむしろ戦争拒否、戦争否定の主張を強く押し出した命題になる。
 なぜかというと、原爆投下のような、平和時の基準では極悪としか言いようのない策が、なんと善になってしまう、それが戦争というものだ、という理屈だからである。「許されざる核兵器使用がなんと許されてしまうような戦争という状況は、なんとしても防ぐべきだ!」という主張の言い換えが、まさに原爆肯定論なのだということがわかるだろう。
 これは一種の「背理法」である。戦争を仮定すると、推論のあげく、結論として、核兵器使用という許されざることが許されるという矛盾が導けてしまう。よって、戦争という仮定は許されない仮定である。結論、戦争はあってはならない。
 こうして原爆投下肯定論は、一見好戦的な主張のように見えて、実は戦争反対の立場の強い表明になりうる。逆に原爆投下否定論は、一見平和的な主張に見えて、実は戦争に甘い立場であり、戦争を起こしやすくする立場だ。
 というのも、平和時だろうが戦時だろうが核兵器は絶対許されないのだから、戦争が起きてもまあ大丈夫、という戦争感を生みやすいからだ。「核兵器さえ使わなければ、原水爆さえ禁止すれば、戦争は致し方ない」という態度は危険である。その態度が蔓延すると、戦争が見くびられることで勃発しやすくなり、大規模戦争も起こりやすくなり、一旦大規模戦争が始まれば、平和時の核兵器製造・使用の禁止協定などどの国も守らなくなるだろう。守っていたら戦争に勝てないからだ。
 したがって、原爆投下否定論が信じられると、結果として原爆が使用されやすくなるという逆説が生ずる。
(同書所収・問54「被爆者のことを考えても原爆投下を肯定できるのか?」214-215頁より引用)

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戦争論理学 あの原爆投下を考える62問

戦争論理学 あの原爆投下を考える62問

  • 作者:三浦俊彦
  • 発売日: 2008/09/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

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