松江哲明が『童貞の教室』で性暴力被害者をセカンドレイプ

 松江哲明といえば、『童貞。をプロデュース』の出演者に性的暴行をしたクズですが、まさに性的暴行をした直後にそのもようを、おもしろおかしく書き立てて、『童貞の教室』(理論社)として出版しています。
 犯罪をした本人が、それをおもしろおかしく書き立てて出版するなどという鬼畜なことをできるのは、酒鬼薔薇松江哲明ぐらいなものでしょう。
 松江哲明といえば試写会でぐーぐー寝ていても、上映後、宣伝の人に「よかったですよー」と言えるクズなので、その本の内容もひどいものです。
 では、松江哲明が『童貞の教室』の中で、自分が加害者として行った性暴力をどのように書いているのか、検証してみます。

 二〇〇六年、僕は『童貞。をプロデュース』というドキュメンタリー映画を製作した。
 タイトルはその前年に、テレビドラマ版が放送されていた『野ブタ。をプロデュース』から拝借した。いじめられっ子の女の子がクラスにいるイケメンコンビに助けられながら人気者になる……というシンデレラ・ストーリーの形式を借りつつも、むしろ彼女の正直な生き方に、イケメン連中のほうが大切なことに「気づかされる」という、逆転の構図が見ていて気持ちいいドラマだった。
童貞。をプロデュース』は自転車便で荷物を運ぶメッセンジャーを職業とする、二十三歳の童貞の男子が主人公の映画だ。
 彼とは僕が講師をしていた映画学校で出会った……のだが、僕の授業に出たのは一回だけらしい。だから当時の彼についての記憶はほとんどない。
松江哲明『童貞の教室』31-32頁)

 いきなり、パクリの告白です。
 松江哲明はその後、とある映画祭の打ち上げで、「僕は、童貞なんです!」と叫んでいる彼の姿を見て、「彼を主人公にして作品を撮れないものか、と思いついた」と書いています。
 しかし、被害者となった加賀賢三氏のブログ「土下座100時間」によれば、その出会いは、松江哲明の書いていることとはかなり違っています。
 加賀賢三氏のブログから引用します。
土下座100時間:『童貞。をプロデュース』について - livedoor Blog(ブログ)

 まず松江さんと初めて会ったのは、ぼくが通っていた映画の学校で松江さんがドキュメンタリーのクラスの講師を担当していたことに由来します。
 卒業後、しばらくしてぼくが出品していた映画祭で松江さんと再会します。当時、ぼくはAVにモザイクを入れるアルバイト等をしながら、自分の「童貞」をモチーフにしたセルフドキュメンタリーを制作していて、その内容を整理する目的もあって、女性に恋をしたこと等、その当時の様子を自分のブログに書いていました。
 そんなある日、ブログを見た松江さんから「最近、恋してるんだって? ドキュメンタリー作ってるんだって?」という電話が掛かってきて、「イメージリングス主催の上映イベント(ガンダーラ映画祭)があって、俺も今度『童貞』をテーマにしたドキュメンタリーをつくろうと思っているんだけど、一緒にやろうよ」といった話になったのです。その時も悩んだのですが、松江さんから「加賀の悪いようにはしないから。どういう作品にするかも必ず相談するし、二人の判断で決めていこう」と言われ、松江さんとドキュメンタリーを制作することになったのです。そうして、それまでにぼくが撮り溜めていた映像素材を松江さんに渡して、その後もぼくは自分のカメラで自撮りをして自分や自分の周りのことを撮影していました。
(加賀賢三氏「土下座100時間」より引用)

 松江哲明はタイトルを『野ブタ。をプロデュース』からパクるばかりか、モチーフまで加賀賢三氏のセルフドキュメンタリーからパクっています。
 松江哲明は、そんな加賀賢三氏のことを『童貞の教室』で、次のように書いています。

 打ち上げの席で彼と出会って三か月くらい経ち、撮影開始。彼を僕の自宅に呼んだ。
 仕事以外は部屋から一歩も出ない、半分引きこもりのような生活を送っている彼は、異性とはセックスどころか、キスの経験さえない、という。「純愛を経ないとセックスはできないから」などとうそぶきながら、その調子で風俗やアダルトビデオに関係する仕事を「汚い職業」と見下す。
 ヒドいよなぁ、それってАVだって撮る僕のことも見下してるってことじゃないか。おまえだって散々АVにお世話になってるくせに、自分だけ正当化するなんて。
松江哲明『童貞の教室』38頁)

 あれれ~おかしいぞ~。
 加賀賢三氏はブログで、「AVにモザイクを入れるアルバイト」をしていたと書いています。そんな彼が、アダルトビデオを見下したりするのでしょうか。
 加賀賢三氏は、ブログで次のように告発しています。 
土下座100時間:世界で一番やさしいゲロ - livedoor Blog(ブログ)

 現場では無理矢理言わされていたが「AVは汚い」なんて僕は全然思っていないし、「女性器を見たことがない」というのも嘘だ。
 というのも、僕はしばらくの間AVの仕事でご飯を食べていたし、その結果、色々な女性器を嫌というほど見てきたワケだし。
 再三に渡って出演をお断りしたにも関わらずゴリ押しされた挙句、2部の冒頭では僕をステレオタイプな悪役に仕立てる為に、監督の連れて来た見知らぬ女性と並ばされて、あたかも僕が童貞を喪失してヤリチンになったかのような画を撮られた、というのも隠された事実だ。
 それに、初対面の人たちの視線の中、パワハラ的な状況下で恫喝され性暴力を受けた結果、好きな女性への告白を決意するなんて、そんなアホな話ある筈がない。
 告白シーンも嘘。ただのヤラセだ。
(加賀賢三氏「土下座100時間」より引用)

 松江哲明が撮った『童貞。をプロデュース』というのは、ドキュメンタリーの名に値しない、何から何まで嘘だというのです。
 では、松江哲明がいかに嘘を書いてきたか、『童貞の教室』からの引用を続けます。

 とはいえ、そんな彼だって恋をしている。誘うのはもっぱら彼のほうからとのことだが、映画を一緒に見に行ったり、食事をしたりするという女の子は、最近上京したばかり。写メを見せてもらったが、「こりゃ無理さ」と彼の肩を叩きたくなるような美女。当然のように、地元には彼氏がいるという。つまりは、彼の片思いなのだ。
 でも彼氏だって、上京した彼女にとってはもはや遠距離恋愛の相手。一緒に映画に行ったり食事に行ったりする彼に、まったくチャンスがないかっていったら、わからない。トライしてみてもいいんじゃないか。
「じゃあさ」と僕は言った。「彼女に告白する勇気を得るために、АVの現場に一緒に行こうよ」。
松江哲明『童貞の教室』41-42頁)

 ここも、加賀賢三氏「土下座100時間」の記述とは食い違っています。加賀賢三氏によれば、松江哲明から「俺がセッティングするから、AVの現場へ取材に行こうよ」と言われ、だまされて連れて行かれたと告発しています。
 そもそも、「彼女に告白する勇気を得るために、АVの現場へ行く」というのが、おかしな理屈です。それについて、松江哲明は、次のように書いています。

 まったく、彼氏がいる女の子への告白をけしかけるなんて、おせっかいじゃないか。さらには、「告白する勇気を得るために、АVの現場へ行く」だなんて、むちゃくちゃな論理だと思われてもしかたない。
 たしかに。でも、これには僕なりのわけがある。
 最初に打ち明けたが、かつては僕も二十三歳で、まだ童貞だった。
 童貞なのに、仕事で呼び出されたАVの撮影現場で、監督が用意した「最強の人妻」と対戦させられた。
 結果は、もちろん完敗。自分が童貞であることを隠し、また、隠し切れると思って現場に臨んだわけだが、実際にはただひたすら、うろたえるばかりだった。
(中略)
「童貞のくせに、言うことだけは一丁前」
 未経験の人間が知ったかぶりをすることほどみっともないものはない。自分ではうまく隠し通せたと思っていても、実際にはぜんぶ、「隠している」という行為さえ、その場を仕切っていた監督に見透かされているような気さえした。
 それでも、いや、だからこそ、僕にとっては大きな経験だった。「自分はぜんぶ見透かされている」と知ることが、大切な経験になったのだけはたしかだったから。
松江哲明『童貞の教室』42-44頁)

 僕は、彼にも「己の小ささを知る」という経験をしてほしい。
 みずからの童貞は平気でカミングアウトするかわりに、何かを必死で隠しているような彼を見て、そう思った。
 隠すよりも、堂々と、セキララな自分で勝負をかけろ。二十歳を超えた男子なら、みずからに対して、強硬手段を仕掛けるべきだ。
 彼に必要なのは、スパルタ式の対処法だ。彼からお願いされたわけでもないが、АVの現場に彼を投入してやろう。彼と、彼と同世代のカラダを張ってお金を稼いでいる女性とを対面させ、彼が言うところの「汚い職業」を実際に体験させてみよう。
 童貞の僕が「童貞じゃありません」と必死に虚勢を張り、そのくせ、セックスをすることを必死になって拒んだ撮影現場。童貞であることを自分から平気で口にする彼は、同じような撮影現場で何をつかむだろうか。
 あのときの僕はただただみっともなく、情けないだけだったけど、彼の場合はどうだろうか。そこにいる「人間」のことを何も知りもしないくせに「汚い」と見下せる彼に、どんな「リアリティ」が待っているだろうか。
 これが、無知に対する愛のムチ、だ。
松江哲明『童貞の教室』47-48頁)

 むちゃくちゃな論理ですね。
週刊文春」も、こんな松江哲明によくも連載させるものです。
 松江哲明によれば、性的暴行は「愛のムチ」だそうです。

 彼に愛のムチを振るう前に、彼がどういう人間なのか、自己紹介がほしいと思った。もちろん、映像で、だ。
 一般のドキュメンタリー映画であれば、主人公となる彼にインタビュー形式で何事かを語らせればいいのだけど、「映画に出ない?」と訊ねた以外は、彼の、あれこれ言いわけめいたことを聞かされるのはうっとうしい。
 だから、彼にカメラを渡してしまうことにした。
「キミの日常生活を全部記録しといて」
 僕の生活なんておもしろくないですよ、と憮然として彼は言った。いやいや、自分で自分のことを「おもしろい」という人間なんて、おもしろいはずがない。その「何か」が目に見える形で記録されることを待つだけでいい。その映像にツッコミを入れることで、「映画」にするからさ。
松江哲明『童貞の教室』48-49頁)

 撮影前に彼は「僕のことを、見た人に笑われるのはヤダ」と言っていた。そんな彼に、僕は「バカにして笑う人はいないって約束できるよ」と言った。
 実際のところ、多くの人は映画を見ながら笑っている。でもそれは、彼が真剣だからこそ、なのだ。その笑いは、彼が心配するような「あはは、こいつダッセー」とあざ笑うものではない。胸にこみあげる切なさがあるから、笑うのだ。
 自分にもたしかにある「恥ずかしさ」を、笑うことで直視しているのだ。
 そういった恥ずかしい時代を経てきた大人も、「かつて」の自分の姿を重ね合わせ、彼のことを愛おしく思うはず。
「その先」をまだ知らない彼にはわからないだろうが、そういうものなのだ。
松江哲明『童貞の教室』51-52頁)

 加賀賢三氏のセルフドキュメンタリーから「童貞」というモチーフまでパクっておきながら、この言い草です。
 松江哲明にだまされてAVの撮影現場に連れてこられた加賀賢三氏は、そこで性的暴行されます。それを加賀賢三はブログ「土下座100時間」で、次のように告発します。
土下座100時間:『童貞。をプロデュース』について - livedoor Blog(ブログ)

 初めてお会いする松江さんの知り合いのAV関係者の方たちに挨拶をして取材はスタート。するとなぜか内トラ(※人員不足などを補うためにスタッフがエキストラ出演すること)のような形で屋外でのスチール撮影をする流れになり、その後、ホテルの一室に移動すると突然「それじゃパンツ脱いで」と言われたのです。
 その時点でぼくは断ったのですが、密室で初めて会う人々に囲まれる中、松江さんから「早くしろよ」「みんなお前待ちなんだよ」「お前のせいで現場が進まねえんだよ」「俺に恥かかせんなよ」「松尾さんを待たせるなんて、お前いい度胸してるな」等々を言われ、それでも断っていたのですが、「じゃあフェラチオのフリだけでいいよ」と提案され、そういった恫喝によって判断力が疲弊していたのもあって、さすがに断りきれず渋々ながら形だけのポーズを取らされたのです。
 そうして始めはフリだったはずが、不意打ちでいきなり本当にフェラチオをされたので、ぼくは「やめましょう」と言って女優さんを引き離しました。すると周りにいた男性に羽交い締めにされ、無理やりフェラチオされる様子を撮影されたのです。
(加賀賢三氏「土下座100時間」より引用)

 この暴力的で陰惨な場面が、松江哲明によると次のようになります。

 そういうわけで、十分におもしろい素材を撮ってくれた彼に、いよいよ試練の場を。
 僕が準備したAVの現場は、敬愛するとある監督の撮影現場。(中略)
 この日撮影現場にいた女優さんは、バストが九〇を超えているという女の子だった。
 一方、僕に連れてこられた彼の仕事は、スチール男優だ。DVDのパッケージ用の写真に必要となる、形だけの役。
 撮られる作品の内容は今回は家庭教師モノのようだ。女の子は机に座り、ポーズを決めている。おっぱいがぷるぷる、そこをカメラマンが「パチリ」。(中略)
 スチール撮影が終了。彼の仕事も終わった。……なんてウソ。んな、甘いワケない。監督が当然のように「じゃあ、シャワー浴びてきて」と言う。
 彼の動きが止まり、、「無理っす」。「なんでよ」と監督が問う。「勃たないっす」という答えに一同爆笑。そういう問題かよ。
「自分はどうすべきか、外に出て、天に聞いてきな」と彼を促す監督。僕はホテルの屋外廊下で天にいる神様? に向かって両手を上げている彼を取る。
 が、近づくと「いやです、イヤです、嫌です」。
 同じ状況で「彼女いるんでいまここでセックスするのは無理です」と騒いだあの頃の自分を思い出し、僕も人のことを言えたもんじゃないと思ったけど、心を鬼にして断言した。
「そうやって、これまでいつも生身の人間と向き合うことから逃げてきたんだろ。おまえが想ってる彼女と万が一うまくいっても、いざセックスするってなったときに、やっぱりお前はそうやって逃げると思うぞ!」
松江哲明『童貞の教室』52-55頁)

 むちゃくちゃな論理で彼にハッパをかけて、撮影再開。彼は目に見えて嫌々な態度。けど僕たちに言われてしかたなく、カメラと女優さんの前に立つ。
 あとは、「勃たせる」だけだ。
 撮っている作品の内容にあわせて芝居しろ、とは言わない。ただ、この状況に耐えろ。絶対、いま見ている景色が変わるはずだから。
 その根拠は「かつての自分がそうだったから」としか言いようがない、根拠と呼ぶにはあまりにも乱暴なものだが、僕が胸を張って彼に言えることだ。
 それでも彼は、女優さんが彼のズボンを下ろそうとすると必死になって抵抗をした。
 で、再び撮影中断。説得して、なんとか再開。
「やっぱ恥ずかしいです」、嗚呼……中断。
 日も落ちかけてきた。撮影現場は太陽との勝負でもある。もう時間がない。
「もう、わかった。オレもズボン下ろす。チンチン出すわ。それなら恥ずかしくないだろ」と僕が動いた。「はぁ、なんでですか!?」と驚く彼。監督までも、「あぁ、俺も脱ぐよ」。
 この状況でズボンを履いているのは、彼だけだ。「まわりが脱ぐと、逆にひとりで服を着てるのが恥ずかしくなる」って、どこかで聞いたことがあるような、ないような。ま、どっちでもいいや。みんなして下半身を出すなんてどうかしてるが、とにかく頭に浮かんでしまったのだからしかたない。こうなったら止まらない。女優さんも「恥ずかしくない!」と大声で怒鳴って、彼を奮起させる。
 そしてズボンに手をかけ、彼自身をアラワにしたのだが……。
 リッパだった。
 撮影終了。彼の顔はどこか晴れ晴れしているかのように見える。
 が、あいかわらずの挙動不審で「すみません、迷惑をかけました」という言葉をペコペコしながら繰り返している。すると、監督がこう言った。
「迷惑ってのは、『かける』もんだから。人に迷惑をかけないってことは、人と関わらないってことなんだよ。それじゃひとりっきりで自分の殻に引きこもっているのと一緒。セックスだって人間関係だって、迷惑はかけて当たり前なんだ。君はこれからも、他人に迷惑をかけると思って生きなよ」
 感動した。僕が彼に抱いていた、自分でも正体がつかめなかったイライラの核が何か、その疑問が解けた気がした。
 彼はこれまでも「AVは汚い」「純愛を経ないとセックスはできない」ともっともらしい論理で自己防衛してきた。また片思いにしても、「彼氏がいるから」と自分の気持ちにブレーキをかけ、一歩を踏み出すこともない。とはいえ片思いのままでいいと本心から思っているわけでもない。彼女に対して想いを伝えたい気持ちが必ずあるはず。でも、それができないことを肯定してしまっているのだ。本当に好きならば「彼氏がいたってかまうもんか」とワガママになっていいはずだ。状況を変える勇気が出せないでいる、そんな自分を「アリ」にしてしまっているのは、監督が言うように「自分の殻に引きこもっている」のと同じだと思う。
 けど、それじゃいけないんだ。自分と自分をめぐることを、なんでも肯定するだけでは、他者と関われない。人に迷惑をかけないからべつにいいじゃないか、なんて言ってはいけない
 僕らは人に迷惑をかけ、かけられ、生きている。「誰にも迷惑をかけたくない」なんていうのは、一見、自立した人間をめざしているようで立派な心がけのように思えてしまうが、「自分の殻にこもってしまっている」ということなんじゃないか。
 それはつまり、人間関係の拒否、ということだ。
松江哲明『童貞の教室』56-59頁)

 監督の言葉で、何かがふっきれたような彼は、片思いの彼女に電話をした。
「会ってもらえませんか」
 告白する決意をした、らしい。
(中略)
 仕事終わりに呼び出し、待たせ、話を聞いてもらうという、彼女という「他者」に「迷惑」をかける決意が見えた。
 映画はここでおしまい。
童貞。をプロデュース』で僕が見せたかったのは、彼が実際に「童貞を喪失する」までのプロセスではない。AVを通して「童貞を失う人」をプロデュースすることではないのだ。
「僕は童貞です」と自分で打ち明けながら、その実、自分から心を開く勇気を持てなかった彼。
 片思いの彼女という、男にとっては世の中でもっとも「他者」な存在に対して、関係性を作ることを拒否していた彼が一歩を踏み出すまでの記録。
 この一歩があればきっと彼はだいじょうぶ。そう思えた瞬間が、撮れた。
松江哲明『童貞の教室』61-62頁)

 息を吐くように嘘をつく松江哲明のことを、伊藤さとりは「映画愛に満ちた」人などと称賛し、有村昆や藤井ペイジやよしひろまさみちと一緒にケロケロケロ、アッケラカーのカーとトークライブをやってきたわけです。
 加賀賢三はブログで、このラストシーンの嘘についても次のように告発しています。
土下座100時間:『童貞。をプロデュース』について - livedoor Blog(ブログ)

 その撮影後、今度は松江さんから「告白シーンが撮りたい」と言われたのですが、それもぼくは断りました。すると後日、「俺から連絡しておいたから」とぼくが当時好きだった女性に、松江さんが独断で出演オファーをしたのです。
 それでもぼくは撮影を拒んでいたのですが、松江さんが「もういいよ。だったら俺の方から、あの娘にお前が好きだってことを伝えてやるよ」と言い始めたのです。
 ぼくはこんな撮影に彼女を巻き込みたくはなかったし、告白は自分のタイミングでしたいと思っていました。最終的に断れなかった理由は、これは本当に幼稚で青臭い理由だと思われるかもしれませんが、「好きな女性に告白する機会」というものを松江さんに人質に取られて、松江さんとの押し問答の中で半ば脅迫されていたからです。
 そうして「告白シーン」は撮影されたわけですが、実際には告白までに至っていません。松江さんに呼び出されて渋谷の交差点で待っている彼女の元へカメラを持って行き「話があるんですけど」と言って撮影は終わりました。
 その場には松江さんも立ち会っていて、彼女に「これはフィクションなんだ」「ヤラセなんだ」と説明していました。ぼくは自分の現実が、松江さんの手によってフィクションに歪められていくことが非常に不本意でした。
(加賀賢三氏「土下座100時間」より引用)

 おどろくのは、松江哲明『童貞の教室』は、ほぼ日刊イトイ新聞が推薦する子供向けの「よりみちパン!セ」シリーズの一冊として出版されていることです。
 松江哲明『童貞の教室』を出版した理論社は、当初は良心的な児童書の出版社でした。
 しかし、欲に目がくらんだ編集者のせいで、松江哲明の『童貞の教室』みたいなくだらぬ本をいっぱい出すようになります。
 装丁デザイナーの祖父江慎の妻で、「よりみちパン!セ」シリーズの担当編集者だった清水檀は、バクシーシ山下の『ひとはみな、ハダカになる。』を出版するのですが、女性団体から抗議を受け、同書の回収・絶版を求める署名運動まで起こります。
 ところが理論社側は、出版・表現の自由を根拠に、自分たちは「良書を出版したと自負している」などとえらそうに回答し、これをはねつけます。
 こんなクソ出版社はつぶれてしまえ、という女性たちの願いが通じたのか、理論社は倒産しました。ざまあ、です。
 ところが、またしても欲に目がくらんだイースト・プレス社がこれを復刊したので、女性団体が再び抗議したところ、イースト・プレス社は「貴会の行ないはナチズムや全体国家のやり方」だと、女性団体による言論弾圧をきっぱりとはねつけ、「日本ではいかなる人物の出版物であっても刊行する自由は基本的人権のひとつです」と、売れるならポルノでも何でも出版するのが商売というものだと高らかに宣言し、えげつない商人の気概を見せつけました。
 出演者に性的暴行をし、それを撮影した映像を十年間にわたって映画館で上映し続け、さらに出版までするという鬼畜な行いを、日本の映画界も出版界も今まで何ら問題視してこなかったのです。
 そればかりか松江哲明に、一流週刊誌の「週刊文春」で連載したり、一流芸能人の山田孝之主演ドラマの演出をしたり、一流美人キャスターの丸岡いずみの夫で一流映画評論家の有村昆と一緒にトークライブをしたりするほどの、活躍の場を与え続けてきたのです。
 何もかも嘘まみれの『童貞。をプロデュース』を監督した松江哲明は、この作品をこうまとめています。

 主人公である童貞の「彼ら」を通して、僕が見たものとは。
 1号の彼を見ていて思った。人に迷惑をかけることを恐れるな。迷惑をかけてもいいから他人と関係する、そういう一歩を踏み出せ。
松江哲明『童貞の教室』80頁)

 

童貞の教室 (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)

童貞の教室 (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)

blog.livedoor.jp

blogos.com
www.paps.jp

koritsumuen.hatenablog.com
koritsumuen.hatenablog.com
koritsumuen.hatenablog.com