税金泥棒どものオリンピック

 森村進『自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門』を読んだ。
 自由主義経済学者のフレドリク・バスティアは、悪い経済学者とよい経済学者を分かつものは、前者が行為や制度の結果のうちすぐに発生するもの、つまり「見えるもの」しか考慮しないのに対して、後者がその後発生するもの、つまり「見えないもの」も考慮するという点にあると主張する。
 たとえば、あなたがガラス窓を割ったとする。すると友人がこう慰めてくれた。
「あなたが損をすることで、別の誰かが得をする。そんな事故があるから産業は成り立つのだ。誰もが生計を立てていかなければならない。誰も窓を割らなかったら、ガラス屋はどうなってしまうだろうか?」
 この慰めの中に間違った経済理論全体が含まれている。
 その窓を直すためにガラス屋に六フラン支払わなければならないとしてみよう。たしかにこの支出はその分だけガラス産業を振興させる。これは見えることである。しかしもしガラス窓が割られなかったら、あなたはその六フランを何か別の用途に使っただろう。たとえばくたびれた靴を買い換えたかもしれない。その分だけ製靴産業が振興したはずである。これが見えないことである。
 両者を考え合わせると、ガラス窓が割られなくても産業全体の振興という点では相違がない。違うのは、ガラス窓が割られた場合にはあなたが六フラン損するということである。あなたを含む社会全体から見れば、この損失はまったく不必要なものだった。ガラス窓の破損は結局社会的損失だったのであり、一見すると賢明に見えた慰めは間違っていた。(164頁の記述を一部改変)

 バスティアはこの教訓を、人員解雇、課税、公共事業、仲買人、保護貿易、機械化、植民地(アルジェリア)経営といった問題に一つ一つあてはめて、自由経済の優位を主張した。介入主義者はその直接の効果である「見えること」しか見ていないというのである。
 現代のリバタリアン経済学者はバスティアの教訓を公共事業にあてはめて次のように主張する。
 政府が公共事業に投資したり補助金を出すためには、税金が必要である。納税者はその税金を取られた分だけ支出が減る。公共投資とは、その課税がなかったら納税者が自分のニーズに応じて行なう消費や投資の代わりに、もうからない事業に政府が資金をつぎ込むことである。その結果富の総額は、公共投資がなかった場合よりも減少する。しかし多くの人々は公共事業から得られる見える利益に目を奪われて、それがなかったら得られたはずの、もっと大きな見えない利益を想像できない。あるいは公共事業から利益を受ける特定の集団がその事業の実施のために圧力をかける。(166頁)

 この発想はなかったわ。テレビに出て「経済効果は〇億円」なんて言ってる経済学者は、ぜんぶインチキ。オリンピックも万博もやめちまえ。

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

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