男はなぜ失恋した女心を歌うのか

 前から気になっていたのだが、井上陽水「心もよう」とか、松山千春「恋」とか、長渕剛「涙のセレナーデ」とか、堀江淳「メモリーグラス」とか、尾崎豊ダンスホール」とか、男の歌手が女言葉で歌うのって、誰が最初に始めたんだろう。
 歌舞伎の女形まで、さかのぼれるのかな。外国曲にも、こういうのはあるのだろうか。
 文学では太宰治の『女生徒』や『斜陽』『ヴィヨンの妻』などが有名だが、鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』によると、小林秀雄の『おふえりや遺文』と、ランボー『地獄の一季節』の「錯乱Ⅰ 狂える処女 地獄の夫」の語り口を、太宰治が真似したとの説。

「男の作者ないしは歌手が元恋人ないしは元妻の口を借りて、破綻した恋愛の経緯を語る」という摩訶不思議なジャンルであるという点において、太宰治の「ヴィヨンの妻」や「斜陽」に始まり、バーブ佐竹の「女心の歌」、ぴんからトリオの「女のみち」、殿様キングスの「なみだの操」を経て、南こうせつかぐや姫の「神田川」に至る「女語り」の系譜の嚆矢といえるのだが、問題は、この「おふえりや遺文」が小林秀雄の著作の中ではあまりに異質なために、まともに論じようとした者がほとんどいないということである。(254頁)

 同書ではこの現象を、斎藤環の「ヤンキー論」に拠りながら、「女性原理の元で追求される男性性」というヤンキーの女性原理的な側面と同じものだとして、「ヤンキーの女物サンダルのような、解釈不能な異様な換喩」だと説明する。
「ヤンキー小林秀雄の女物サンダルが、日本の歌謡曲の一ジャンルとなるあの不思議な形式を生んだ」(257頁)というのだが、これは、どうだろう。こじつけくさい。

「女語り」はムード歌謡や演歌やフォークソングに多くて、ヤンキーを象徴する横浜銀蝿氣志團にはほとんどない。思いつくのは、キャロルの「レディ・セブンティーン」くらいか。 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は作詞が阿木燿子だから、微妙なところ。グループサウンズまでさかのぼれば、あるけど、もはやヤンキーは関係ない。
 それで女はこういう歌を聴いてどう思うのだろう。
「調子のいいこと言ってんじゃねーよ、バーカ」とは思わないのだろうか。
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