無知は無知である

 ウーマンラッシュアワー村本大輔が『朝まで生テレビ』に出演したところ、「無知な人間の政治的意見」だとして非難を浴びた。ところがこれを宮台真司は、次のように擁護している。

プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』に出て来る、“無知の知“という有名な言葉がある。無知であることを知っていることは価値があるということだ。村本さんのことを「無知だ」なんて言っている人間は、自分が無知であることを恥じるべきだ。だって無知を知らないんだから。村本さんは、自分が無知であるということを知っていて、そういう切り口からモノを聞いているわけだから、ソクラテスそのものだ。プラトンの著作について教養のある人間であれば、村本さんのことを無知だなんて言うことはあり得ないし、イコール、“クズ“だ。

 しかし、である。本当に、「無知であることを知っていることは価値がある」のだろうか。本当に、ソクラテスはそんなことを言ったのだろうか。本当に、「プラトンの著作について教養のある人間であれば、村本さんのことを無知だなんて言うことはあり得ない」のだろうか。

 納富信留は『哲学者の誕生』において、こうした「無知の知」をなにか高尚な哲学だとする考え方を、はっきりと否定している。(第六章「無知の知」という誤解・278頁より)
 第一に、「無知の知」という表現は、普通には「無知を知る」こと、つまり、「知らない」という状態を対象とした「知」を意味するものと理解される。
 ここでの「無知」は善や美などを「知らない」ことであり、したがって「無知の知」とは、それら大切な事柄を対象とする、より高次(メタ・レヴェル)の「知」に当たるはずである。しかし、知の内容にはまったく関わることなく「知と不知の知」にだけ関わるそのような高次の知は、内容を欠く以上、無益で不毛である。そういった高次の知が仮に可能であるとしても、もはや「善や美」を対象とはしない空疎な「知」に過ぎない。

 第二に、「無知の知」が、高次の知ではなく、「無知(である自己)を知る」という意味でソクラテスの立場を表すとする可能性を検討しよう。
 デルポイアポロン神殿に捧げられた有名な「汝自らを知れ」という箴言は、しばしばソクラテス哲学の核心に位置づけられてきた。しかし、ソクラテスは「不知なる者」としてであれ、けっして「自己を知っている」と表明することはなかった。むしろ、デルポイ箴言を神からの命令と受け取り、絶えず自己を知に関する吟味に曝すことが、ソクラテスの哲学であった。(280-281頁)

 第三に、「無知の知」の「の」を「首都の東京」というように同格ととり、「無知という知」と理解すれば、高次の知を想定する必要はなく、『弁明』の説明にも対応すると考える人がいるかもしれない。
 しかし、この「無知という知」という理解も適切ではない。「知らない」という事態は、ソクラテスに限らず、結局あらゆる人間がおかれている根源状況である。知らない状態にありながらそれを自覚していない人がほとんどであるこの世界で、「知らないこと」(=不知)をそのまま「知」と見なしてならないことは明らかである。(281-282頁)

 ソクラテスはけっして自らが「知」を持つと主張しているわけではなく、まして「無知の知」を持っているなどとは言ってはいない。(282頁)

 ソクラテスはけっして「知らない」と言って開き直ったり、そこに安住したわけではなく、生涯人々と対話し、自らが「知らない」ということを確かめ続けた。そして、その「知らない」という自覚と表明において、知を愛し求める営みに従事し続けた。他方で、その厳しい吟味が他の人々の思い込みを破壊し、その無知を暴露することで、多くの人々の憎しみを買った。これがプラトンの描く「哲学者」の本質であった。(296-297頁)

 このように、「無知の知」というのは、日本人が西洋哲学を受容する中で生まれた誤解である。無知であることを知っていても、無知に変わりはない。

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