「私の支援者が黙っていませんよ」と家永三郎は言った

 家永三郎は教科書裁判で左翼のヒーローとなったが、戦時中は軍部に迎合していた。その変節を秦郁彦が『日本占領秘史』(朝日新聞社)の中で指摘したら、家永三郎から抗議された。
 秦郁彦はそのときの家永三郎の態度について、読売新聞の「時代の証言者」という連載記事の中で次のように述べている。

 朝日新聞出版局は、手打ちに持ち込みたかったのでしょう。その年の暮れ、私は築地の旅館で家永さんと会談しました。
 私は「表現の緩和や修正には応じるので具体案を出してほしい」と提案しましたが、家永さんは拒否。問題部分の全面削除、再版時に陳謝の意味で断り書きを入れることなどを求め、応じなければ名誉毀損で告訴するというのです。
 私は家永氏の著作を引いて反論しました。例えば、「学界の一兵卒として学問報国の戦列に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者」など、戦時中の迎合的表現をいくつも取り上げました。
 しかし、家永さんは「検閲に対する避雷針だ」と釈明します。「我々がどんな苦しい思いで当局に協力せざるを得なかったか若い人には分かるまい」とか「私の知的水準が低かったのであって、節操が変ったのではない」などとも弁明しました。結局、話し合いは物別れに終わりました。
 ところが「自分は我慢してもいいが、教科書裁判の支援勢力が黙っていないだろう」という脅し文句に、朝日新聞は震え上がったらしい。1週間後、私の講義部分が載った『日本占領秘史』下巻を絶版にすると一方的に連絡してきました。
 10年後の87年、私は家永さんと再び対決します。家永さんの教科書裁判で、国側の証人として出廷したのです。私は、家永氏の天皇観が、右から極端な左へ変遷したことを指摘し、「こういう振幅の大きい方は、教科書の執筆者には不適当」と陳述しました。
 当時の家永さんは、進歩派陣営の大スターでした。私は学界から、まるで右翼反動並みの扱いを受けましたよ。(引用終わり)

 まあ、家永三郎というのは曲学阿世の徒ですわ。