人のためによかれと思い

 パオロ・マッツァリーノ『偽善のすすめ』を読む。
 日本の歌謡曲やポップスの歌詞で「偽善者ぶって」、「偽善者のフリをする」というのがあるが、これはおかしい。「善人ぶって」「善人のフリをする」が正しいのであり、偽善者ぶるだと意味が逆になる。
「私は偽善者ではない」というなら、その人は完璧な善人か、完璧な悪人のどちらかである。そんな完璧な人などいないのであるから、すべての人間は偽善者である。
 大切なのは、動機や気持ちでなく、結果なのだ。たとえ動機がやましくても、実害がなくて、善行によって助かる人がいるなら、それでいいのだ。
 著者のパオロ・マッツァリーノはこうした立場から、日垣隆ビートたけし小池龍之介らを批判する。その論旨は明快であるし、納得できる。とはいえ、よかれと思ってやったことが悪い結果を招くこともあるし、なにをすれば本当に世のため人のためになるのかは、むずかしい。たとえば、レストランがホームレスに無料で食事を提供するのだって、それは善意にはちがいなかろうが、経営その他に悪い影響がないわけではなかろう。
 それから、ひところ論理的な考えが身につくというので「ディベート」というのがもてはやされたが、その無意味さについても、著者は次のように述べている。

 そういう競技ディベートって、賛成と反対の立場を決めて勝ち負けを競ってるだけなんですよね。途中で意見や立場を変えたらいけないわけで、私にはそんなの、上っ面だけ裁判をマネしてる弁護士ごっこ、検察官ごっこにしか思えないんですよ。(略)
 相手を言論で屈服させればうれしいのかな。たとえば、本を読んだら、エーっとおどろく意外な事実があったとします。それって、これまでの自分の常識が覆されてるんです。本の著者に背負い投げをくらって床に叩きつけられてるんですよ。相手に負けたのに、知的にも精神的にも成長したことになります。
 では逆に、主張や立場を最後まで変えずにディベートに勝った人は、なにを得たのでしょうか。勝利者としての栄誉ですか? でも、相手の批判をはねのけておのれの主張や立場を変えなかったということは、自分のなかで進歩も変化も成長もなかったことになりませんか。
 現実の社会やネット上での議論を見ても相手を論理的に論破して議論に勝ってるケースは少ないような気がします。意固地に自説を押し通し続けて、自分は正しいのだ、と叫び続けたあげく、論敵がさじを投げて議論から撤退したところをみはからって勝利宣言をしてるヤツのほうが多いように思えますけどね。
 バカにつける薬はない、とあきれられただけなのに、議論に勝ったと勘違いしてるヤカラは、学者や評論家にもたくさんいるんですよ。(P55-57)