修行に効果はあるか

 ホリエモンの寿司職人に関する発言が話題となった。いわく、寿司職人に大事なのはセンスであり、悠長に何年も修行するのは馬鹿である、と。
 これは寿司職人に限ったことではなく、はたして技能を身につけるのに、いったいどういう方法がもっとも有効なのかということについて、少し考えてみたい。
 合理的な方法で短期間に一流になれるのなら、それに越したことはない。そういう学校があるなら私だって入学したい。しかしなかなか、そうはいかない。なにしろ、専門的な技能を身につけるためには一万時間が必要という説もある。
 ホリエモンは日本の精神主義的で非合理な修行の効果を疑問視したが、中山正和は『カンの構造』(中公新書)のなかで、逆にこうした修行の必要性を説いている。
パブロフの犬」で知られるパブロフは脳の働きを、第一信号系と第二信号系に分けた。第一信号系とは動物にも人間にも共通な条件反射的なもので、これに対して第二信号系とは、外部からのいろいろな情報をコトバによって論理的に判断し実行するものである。本能と理性、カンとリクツ、非論理と論理、の違いといえようか。
 これらは技能や芸の習得にも、深く関係している。

 アメリカでは、たとえばピアノを習いたいときに先生のところへゆくと、「それでは毎週月曜日の三時から二時間、あなたのレッスンをとりましょう」というわけで、はじめの日から「手の位置はこう、肩の力を抜いて――」と、コトバを用いて「芸」そのものに関する情報を与えてくれる。だから弟子は、先生のコトバによって芸を「理解」する――ということは、自分の第二信号系によって受入れることである。そして、理解したことをやってみて、さらに欠点を修正する。(略)これは論理的な教授法である。
 ところが、日本的な師匠といわれる人たちはこういう教え方はしなかった。たとえば、落語家になりたくて師匠のところにゆく。「よし、じゃあしたからウチに来な」という。たいていは住み込みである。しかし、いっこうしゃべり方も身振りも教えてくれるわけではない。朝おきるから晩寝るまで「掃除しろ」「水を撒け」「洗いものをせよ」「肩をもめ」「茶をいれろ」というようなことばかりやらせている。こういう師匠をしてしていわしめると、「手をとって教えれば早いようだが、それでは弟子はけっして師匠以上にはならん。こういう修行をつづけているとあるとき、ひとこといえばみんなわかってしまうような、そういうときがくる」ということになる。(P141-142)

 このことを、中山正和は次のように説明する。
 アメリカの先生の教え方は第二信号系(コトバ)による論理的な教授法だが、日本の師匠のやり方はそうではなく、師匠の「芸の周辺」を教えている。師匠の身の回りのことは、芸とは直接の、論理的なつながりを持たないが、しかし、まったく無関係というわけでもない。そういう雑用みたいなものは、その一つ一つは意味がない、ごくつまらないものであるが、毎日毎日くりかえし、くりかえし、やっているうちに、弟子の脳内に第一信号系(条件反射)による情報としてどんどん蓄えられていく。
 この弟子に「師匠の芸を学びたい」というつよい問題意識があると、そうした情報が記憶の中で互いにつながりあって、たとえ論理的なつながりを教えられなくても、大体の方向が予見できるようになる。弟子の頭の中にカンが働きだすのである。
 それで「あるとき突然に」という形で「わかってしまう」。完全な自発である。弟子は師匠に「習った」とは考えない。師匠は一つも教えてくれなかったが、自分で発見した。自分の芸を作った、と思うのである。自発の特徴として、弟子は心の底からこみあげてくる歓びを感ずる。
 アメリカ式論理教授でも、十分くりかえして理解すれば、やはり自発性を期待することができる。しかし「先生に習ったから」というのと、「師匠は教えてくれなかったが」というのでは、同じ「わかった!」というのでもその快楽反応がちがう。後者のわかりかたのほうがはるかに自信に満ちあふれているのである。したがって、つぎの新しい困難に向かっても、指導者を頼らず、みずからがそれに挑戦しようとするようになる。しかし、ゆきすぎると傲岸不遜ということにもなるだろう。(P142-144より引用)
 これについて、中山正和は『創造思考の技術』(講談社現代新書)の中では、次のように述べている。

 アメリカで芸事をしこむばあい、「それではあなたは月曜日の何時から何時間レッスンをとりましょう」というふうにやる。スケジュールがきまって、そのとおり、リクツで教えて行く。
 もっとも日本でも、ある代議士が有名な碁の大家に教えを請うたところ、懇切ていねいにリクツを教えてくれた。「こういうことはなかなか教えてくれないものと聞いていましたが」といったところ、「いや、あなたはどうせ素人なんですから教えるのです。本当の碁打ちを作るつもりなら、こんなことはいいません」といわれたそうである。
(P131より引用)

 まとめると、合理主義による教授法では短期間でそこそこの技能が身につくが、一流にはなれない。一流になるためには、非合理な修行に耐えて、その中から自発的に技能を身につけなければならない、ということであろうか。中山正和の考え方は、落語家などの一見非合理な修行からなぜ名人が生まれるのかということについて、じつに合理的に説明していると思う。さまざまな人生経験が「芸の肥やし」になるというのも、こういうことである。
 とはいえ、掃除や洗濯など、師匠の身の回りの世話をして芸が身につくのなら、師匠の奥さんこそ名人にならなければらない。家政婦だって名人になれるはずだ。しかし、そんな例はない。すべての弟子がそんなやり方で落語がうまくなるわけでもない。実も蓋もないことを言えば、結局はやはり本人の才能である。長々と書いてきて、それが結論か。
 さて、手元にある『カンの構造』は、1968年の初版で、1992年に32版となっているが、次のような記述がある。これも参考までに引用しておこう。

 経営者の愛読書というアンケートの中に、山岡荘八氏の著『徳川家康』が意外にたくさんあった。家康の言行が経営に大変参考になるというのである。
 しかし、ドラッカーの経営論はどうだろう。そのほうがずっと順序よく、論理的に説明されているので、より理解しやすいはずである。徳川家康から、彼の経営論をまとめてみても、おそらくそんなに系統だったものはできないだろうし、内容も貧弱であるにちがいないのだが、なぜ経営者はドラッカーを選ばないのか?
 ドラッカーはこの場合、第二信号系、線的であり、徳川家康は第一信号系、線的構造になる。経営についての論理体系は家康にはない。小説に書かれているのは折りにふれて家康が見せる経営の断片と、それにつながる周辺の詳細な描写である。いわば家康の哲学についての周辺記憶みたいなものだ。
 読者は、こういう膨大な家康の周辺を読んでいる。そこに書かれていることは、ごくありふれた、われわれの周囲にも、いつでもおこりそうなことばかりである。その数が膨大であるために、読者のもっている経験と、家康のそれとのあいだに「同じようなもの」がたくさんあらわれる。これらはとうぜん第一信号系の中で結合してしまう。
 小説との「共感」というのはこういうことである。家康はなにかの問題意識を持って、小説の中でいろいろな動きをするが、読者には彼の真意はわからない。しかし、だんだん読んでいるうちに、その周辺のつながりができてくる、カンのもとが形成されるわけだ。読者もまた、「意識に上らない」第一信号的な問題意識をもちはじめる。そこに情報の山ができてくる。そういう状態で家康が「こういう処置を取った」ことを読んだとき、問題が解ける。そのとき読者は「ナルホド!」とわかるのである。コトバによるリクツのまえに、自発すべき条件が、周辺の記述によってできあがっているからそうなるのである。(P145-146より引用)

カンの構造―発想をうながすもの (中公新書 174)

カンの構造―発想をうながすもの (中公新書 174)