おれも京都ぎらい

 Eテレ「100分de平和論」に法政大学総長の田中優子が出ていたのだが、あいもかわらぬ江戸時代礼賛でうんざりした。
 当時、都市に暮らす人々は排泄物を便所にためて、それを農家の人が汲み取りに来て肥料にしていた。さらにそれを商売にする人が現われ、排泄物は都市から農村へ運ばれるとともに、お金も循環し、環境にもやさしいし、ほんと江戸時代ってすばらしいでしょ、という話である。その背景にきびしい身分差別があったことには言及しない。
 それで思い出したのが井上章一の『京都ぎらい』である。井上章一京都市の周辺部に位置する嵯峨の生まれである。京都の街中、洛中で暮らす人たちには、周辺部に対するあからさまな差別意識がある。
 井上章一は若い頃、研究のために綾小路に住む杉本秀太郎を訪ねた。そこで、「君、どこの子や」とたずねられる。「嵯峨からきました」と井上章一が答えると、杉本秀太郎はこう言ったという。
「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」
 井上章一はこの言葉にショックを受ける。

「うちへよう肥をくみにきてくれた」。この言い方は、いちおう感謝の気持ちもこめたかのように、くみたてられている。「きてくれた」という以上、表面的にはそううけとらざるをえない。
 だが、そこに揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞き取れた。嵯峨の子か、田舎の子なんやなと、そう念をおす物言いであったことは、うたがえない。私は、はじめて出会った洛中でくらす名家の当主から、いけずを言われたのである。
 こちらに何か、落ち度があったせいだろうか。気づかぬあいだに、失礼なことをしでかしてしまったのかもしれない。それで、あんなことを言われたのではないかと、はじめのうちはなやんだりもした。
 その後、洛中の人々とも出会うことがふえ、私は考えをあらためている。とにかく、みんな中華意識が強い。嵯峨あたりの人間なんて、見下されるのはあたりまえやないか。私にむかい、そうどうどうと言いはなつ者もいる。(P19-20)

 今でさえこうなのだから、江戸時代の差別意識がどれほどきびしいものであったか。他人の排泄物を汲み取って肥料にせざるを得なかった人々の心情など、大学総長となった江戸文化研究者には思いもよらないか。
 この本で京都の洛中人たちにある差別意識を容赦なく暴いていく井上章一の筆は皮肉交じりで、幾重にも屈折してて、それが読みにくいという人もいようが私には痛快だった。以下に、お気に入りの記述を抜き書きする。

 けっきょく、私は戦後の、平等をよしとする公教育でそだったということなのだろう。ある地域に、他の地域を見下す権利があるなどとは、はなから思わない。どこの地域にも、ひとしなみの尊厳があってしかるべきだと考える。民主主義を国是とする戦後のいい子として、調教されたような気がする。
 また、そういう教育をほどこした学校に、うらみつらみもいだいていない。
 なるほど、早めに洛中洛外の格差を教えてもらえれば、あとでこうむる傷は小さかったろう。京都人たちにいけずを言われても、いちいちダメージをうけたりはしなかったと思う。はじめから、洛中の文化的な優位を、さとされていたならば。
 しかし、あの教育をほどこされたおけげで、私は心に痛手をうけることができた。差別はいけないと教えられた上で、嵯峨をあからさまに愚弄する人々と、出会えている。京都の子どもとしてあつかわれながら、あとで自分は京都の子じゃないと、気づかされた。ひとつの価値がゆらぎ、くずれていく様子を、堪能させてもらうことができたのである。
 こういう崩壊感覚の体験は、私の書くものにある屈折をあたえているだろう。ひろがりや奥行きを、まあ臭気や毒気もあるかもしれないが、もたらしていると思う。(P51から引用)

 高給料亭なんかの差別意識もひどいよな、ということは以前の日記に書いた。
世界よ、これがおもてなしだ

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)