分人的な事情により

 平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を読む。人はさまざまな場面で、キャラを演じ分けているが、はたして本当の自分はどれだろうか、という悩みがつねに付きまとう。そこで著者は「分人」という概念を提出する。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

「個人」(individual)の語源は、「分けられない」という意味である。ここから、否定の接頭辞inを取ると、「分人」(dividual)になる。唯一無二の「個人」は分けられない、日本人はこの概念を西洋から輸入したわけだが、本当はそんなことなくて、人にはいくつもの顔があってそのどれもがぜんぶ本人であってなにか問題でも? そっちのほうが楽なんじゃないの? と、かみくだいて言えばそういう内容である。個人を整数の1とすれば、分人は分数である。
 言われてみればそのとおりで、これはかなりすごい発明かも知れない。なお、鈴木健なめらかな社会とその敵』によれば、ジル・ドゥールーズが「管理社会について」という論考の中でこの概念を使っているという。
 しかしまあ、個人としての葛藤も悩みも消えてしまうとなると、小説なんかほとんど価値がなくなるんじゃないかなあ。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)