平和主義者の暴力

 松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書)を読む。平和主義という言葉の響きには、どうも理想論に過ぎないものを感じるのだが、これを読んでもその感じはぬぐいきれなかった。いかなる暴力も認めないというガンジーキング牧師を「無条件平和主義」だとすると、著者の立場はそれより現実的な「条件付平和主義」となる。特定の条件のものとでは暴力の使用もやむを得ないとするのだ。しかしそれでは現実主義と何がちがうのか。特定の暴力を必要悪として認めながらも、心情として平和を望むことを「平和主義」というのであれば、それはたんに心の安寧を求めているに過ぎないのではないか。
 サンデル教授で有名になったトロッコ問題というのがある。あなたは猛スピードで走っているトロッコの運転士である。進路には、5人の作業員がいる。ブレーキがこわれていて、このままだと5人をひき殺す。ふと、右側にそれる待避線が目に入る。そこには1人の作業員がいる。トロッコを待避線に向ければ、1人の作業員は死ぬが、5人は助けられる。さて、どうするか?
 この本でもこの問題に触れられているのだが、誰もが納得できる答えが提示されるわけではない。

五人を犠牲にするか一人を犠牲にするかの選択を迫られ、私たちはやむなく一人の無辜の命を犠牲にするかもしれない。にもかかわらず、普通の人間はその決断の瞬間に、なお何らかの迷いや躊躇を感じないわけにはいかない。その感覚的な重みこそ、殺人を禁止する絶対普遍の原則がこの世に存在することを示唆しているのである。
(P67より引用)

 たしかにそれはそうだろう。それでもなお、殺人は起こる。どうすればいいのか。
「平和主義者が提案する処方箋は、対処療法というよりも原因療法に近い」(P217)と著者は述べる。「対処療法」は、即効性があり効果が目に見えやすいが、病状を根本から治療できるかどうか疑わしい。それに対して予防措置が主となる「原因療法」は、実を結ぶまでに長い時間がかかるものの、根本的な治療になるはずだと著者は考えているようだ。しかし、「病状を根本から治療」という比喩に危うさを感じる。
 トロッコ問題に当てはめれば、そもそもトロッコをなくせば、事故も起きない。しかしそんな社会は可能か。町中に監視カメラを設置し、お互いを監視し合い、それで暴力を根絶させて平和になったとしても、そこには別種の暴力が出現するのではあるまいか。