小山田圭吾のいじめを次世代に語り継ぐ

 毎年この時期になると、戦争体験や被爆体験を語り継ぐイベントが各所で催されている。戦争の悲惨さ、残酷さを忘れず、これを歴史の教訓として次世代に引き継ぎ、戦争のない平和な社会を目指そうという試みである。
 どれほど悲惨な体験であっても、時の流れの中で風化し、忘れられていくのが世の常である。そしてそれを知らずに育った若い世代は、知らないままにまた同じ過ちを犯す。人間はおろかである。が、体験を語り継ぎ、歴史に学ぶことで、そのおろかさをいくらかでも矯正できればと願う。
 私には戦争をやめさせるなどという大それたことはできない。原発を停めさせる力もない。反原発デモに参加してもいいが、もしそれで日本から原発が無くなり、その結果どれほど貧しく悲惨な社会になろうと責任は取れない。
 しかし目の前でいじめられている子供がいれば、助けたいと思う。すべてのいじめをなくすことはできないが、なくすための提案はできるかもしれない。戦争体験を語り継ぐことで、戦争をなくせると考えている人が大勢いるのならば、それに倣い、いじめの悲惨さを語り継ぐことにも、公益性があろう。
 雑誌『クイックジャパン』vol.3が、太田出版から発行されたのは、1995年8月1日。編集発行人は赤田祐一、編集者は北尾修一。「村上清のいじめ紀行・第一回ゲスト小山田圭吾」は、51ページから72ページにある。17年も前の雑誌であれば、今の学生が知らなくても無理はない。知らないまま小山田圭吾の音楽を聴いていた人もいよう。
 まずは「小山田圭吾における人間の研究」を読んでもらいたい。

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 読めば、心を揺さぶられるはずである。それが普通の反応だと思うが、なかには何も感じない人もいれば、かえって露悪的になりこちらを攻撃してくる人もいる。そういう人にとって、音楽を聴くとはどういうことなのか。そういう人が本当に音楽を愛し理解できるのか、そういう人に音楽は必要なのか。

 雑誌『クイックジャパン』掲載時の情報によれば、村上清は1971年生まれ、インタビュー中心のミニコミの編集人。「いじめ紀行」の企画を思いついた動機を、つぎのように語っています。(P52-54から引用)

 そんな僕にとって、”いじめ”って、昔からすごく気になる世界だった。例えば
*ある学級では”いじめる会”なるものが発足していた。この会は新聞を発行していた。あいつ(クラス一いじめられている男の子)とあいつ(クラス一いじめられている女の子)はデキている、といった記事を教室中に配布していた。
とか、
*髪を洗わなくていじめられていた少年がいた。確かに彼の髪は油っぽかった。誰かが彼の髪にライターで点火した。一瞬だが鮮やかに燃えた。
といった話を聞くと、”いじめってエンターテイメント!?”とか思ってドキドキする。
 だって細部までアイデア豊富で、なんだかスプラッター映画みたいだ。(あの『葬式ごっこ』もその一例だ)
 僕自身は学生時代は傍観者で、人がいじめられるのを笑ってみていた。短期間だがいじめられたことはあるから、いじめられっ子に感情移入する事は出来る。でも、いじめスプラッターには、イージーヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティヴさを感じる。小学校の時にコンパスの尖った方で背中を刺されたのも、今となってはいいエンターテイメントだ。「ディティール賞」って感じだ。どうせいじめはなくならないんだし。

 去年の十二月頃、新聞やテレビでは、いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。「コメンテーター」とか「キャスター」とか呼ばれる人達が「頑張ってください」とか「死ぬのだけはやめろ」とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした。
 それに、いじめた側の人がその後どんな大人になったか、いじめられた側の人がその後どうやっていじめを切り抜けて生き残ったのか、これもほとんど報道されていない。
 誰かこの観点でいじめを取り上げないかな、と思っていたら、昔読んだ『ロッキング・オン・ジャパン』の小山田圭吾インタビューを思い出した。
 小山田圭吾といえば、数年前にアニエスb.を着て日本一裕福そうなポップスを演っていた、あのグループの一員だ。ソロになった今でも彼の音楽は裕福そうだが、そんな彼は私立小・中学時代いじめる側だったらしい。
 ヤバい目つきの人だなあとは思っていたが。「全裸にしてグルグル巻きにしてオナニーさせて、バックドロップしたり」とか発言してる。それも結構笑いながら。

 僕も私立中学・高校とエスカレーターで通っていたので、他人事とは思えなかった。僕の当時の友人にはやはりいじめ加害者や傍観者が多いが、盆や正月に会うと、いじめ談義は格好の酒の肴だ。盛り上がる。私立って、独特の歪み方をする。
 小山田さんは、「今考えるとほんとヒドかった。この場を借りて謝ります(笑)」とも言っている。
 だったら、ホントに再会したらどうなるのだろう。いじめっ子は本当に謝るのか? いじめられっ子はやっぱり呪いの言葉を投げつけるのか? ドキドキしてきた。対談してもらおう!
 最終的には、いじめられてた人の家の中まで入った。しかし結局この対談は実現せず、小山田さんへの個人インタビューとなった。

 太田出版で『QJ』赤田・北尾両氏と会う。いじめ対談のことを話す。「面白いね、やってよ。和光中学の名簿探してみるから」。まず、いじめられっ子を探すことにする。

 そして、太田出版にいた和光出身の人から和光中学の名簿を入手。「学年を超えて有名」だったいじめられっ子に、対談依頼の手紙を書き、会いに行く。しかし、「ハードにいじめられていたのは別の人ではないか」と言われ、小山田本人に聞くことになる。
 小山田圭吾が笑いながら語ったのは、障害者の沢田君と、村田さんに対する壮絶ないじめ。そのインタビュー風景を、村上清は次のように書いています。

 以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。

 
 そして、同級生の朝鮮人の話になります。(P64-65)

■他にいじめてた人はいるんですか?
 いじめっていうのとは全然違って、むしろ一緒に遊んでた奴なんだけど、朴(仮名)ってのがいて。こいつは名前の通り朝鮮人なんだけど、朝鮮学校から転校して来たのね。で、なんでからかわれたんだっけ……、とにかく、本当にピュアでいい奴なのね。だからなんだろうけど。あ、思い出した! これ実は根深いんだけど。初日の授業で、発表の時にはりきって「はい」って手挙げたんだけど、挙げ方がこんな(ウルトラマンスペシウム光線に似たポーズ)だったのね。それで教室中大爆笑になって、それでからかわれ始めた。でもそれは朝鮮学校の手の挙げ方だったのね。
 あと、こいつの家は親がきびしくて、門限が五時とか。で、無理やりひきとめてサ店とか入って、食うだけ食って五時過ぎたら「じゃあ!」とか言って(笑)
 ここの親は、怒るとすぐ子供を坊主にしちゃうのね。で、朴がラジカセを買うって一万円ためてたんだけど、ある時、ベランダに閉じ込められて、窓とか鍵閉められちゃったの。そしたら窓ガラス蹴り破って出てきて。先生に叱られて結局ラジカセの一万円でガラス代弁償することになったの(笑)。次の日、やっぱりこいつ坊主になってました(笑)。
 で、ある日「おまえ、そんな家出ちゃえよ。ウチ泊めてやるから」とか半分冗談でアドバイスしたら、ホントに朝の六時に駅から電話がかかってきた。仕様が無いから迎えに行って家に置いてあげたんだけど、こいつのバッグが着替えじゃなくて教科書で一杯でさ。夏休みなのに(笑)。しかも弟に「小山田の家に行く」って思いっきり告げてきちゃったらしくて、結局すぐ親が迎えに来て。僕は怒られた(笑)。

 小山田圭吾にとって「一緒に遊んでた」というのは、こういうことのようです。村上清はこれを聞き、「全く、いちいち面白い人のいる学校だ。和光とは、いったいどんな学校なのか?」と書き、次のようなエピソードを紹介しています。(P64)

体育祭のリレーでは、先頭ランナーは全員肢体不自由者がやることになっているという。スタートと同時に、全走者が違う方向へ走り始める。
和光は養護学校との交流も盛んで、小山田氏は何故か音楽室でその接待役になり、車椅子を押してたことがある。

 小山田は小学校で「太鼓クラブ」に入っていました。生徒が五人しかいないクラブで、先生も「五人で勝手にやってくれ」という感じだった。その中に障害児の沢田君がいて、「五人でいても、太鼓なんか叩きゃしなくって、ただずっと遊んでるだけなんだけど。そういう時に五人の中に一人沢田っていうのがいると、やっぱりかなり実験の対象になっちゃうんですよね」(P56-57)

太鼓クラブとかは、もうそうだったのね。体育倉庫みたいなことろでやってたの、クラブ自体が。だから、いろんなものが置いてあるんですよ、使えるものが。だから、マットレス巻きにして殺しちゃった事件とかあったじゃないですか、そんなことやってたし、跳び箱の中に入れたりとか。小道具には事欠かなくて、マットの上からジャンピング・ニーパットやったりとかさー。あれはヤバイよね、きっとね(笑)。(P61)

 沢田君は、小山田に毎年年賀状を出していました。記事には、沢田君が一生懸命に書いた年賀状の写真も掲載されています。しかし、小山田はそれについてこう述べます。

 それで、年賀状とか来たんですよ、毎年。あんまりこいつ、人に年賀状とか出さないんだけど、僕のところには何か出すんですよ(笑)。で、僕は出してなかったんだけど、でも来ると、ハガキに何かお母さんが、こう、線を定規で引いて、、そこに「明けましておめでとう」とか「今年もよろしく」とか鉛筆で書いてあって、スゲェ汚い字で(笑)」(P57-58)

 小山田にインタビューした村上清は、

 事実を確かめなきゃ。
 小山田さんにいじめられっ子の名前を教えてもらった僕は、まず手紙を書いた後、彼らとコンタクトをとっていった。何かロードムービーの中に入り込んだような感覚になる。

 ということで、いじめられていた人たちに会いに行きます。しかし、村田さんは、家族との連絡を絶ってパチンコ店で住み込み店員となっていました。もう一人、沢田さんは障害がひどくなり、家族との会話も困難で、社会復帰はできていません。

 村上清は、その沢田さんに小山田との対談を依頼しますが、沢田さんのお母さんから「対談はお断りする」と言われます。なぜこうまでして、いじめられていた障害者の沢田さんを、小山田圭吾と対談させようとするのでしょうか。
 村上清は、小山田にこう語っています。(P69)

だから、小山田さんと対談してもらって、当時の会話がもし戻ったら、すっごい美しい対談って言うか……。

 そして朝鮮人の朴さんは、消息不明。

朴さんは、電話してもマンションに行っても違う人が出た。手紙も「宛て所に尋ねあたりません」で戻ってきた。

 村上清からそのことを知らされた小山田圭吾は、次のように語ります。

今、なんか「朝鮮のスパイだった」って噂が流れてて(笑)。「僕ら殺されるわ」とか言って。ホントにいなくなったっていうのは、僕も誰かから聞いてたんですよ。誰も連絡とれなくなっちゃったって。だから噂が流れて。
■いま会ったら、何話します?
あやまるかなあ、スパイだったとしたら(笑)。とりあえず「ごめんなさい」って。でも、そんな朴とか、一緒に遊んでたからな。あやまるっていう程でもないかな。

 取材を終えた村上清は、次のような感想を述べます。

今回僕が見た限りでは、いじめられてた人のその後には、救いが無かった。でも僕は、救いがないのも含めてエンターテイメントだと思っている。それが本当のポジティヴってことだと思うのだ。
(引用終わり)


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