プライドにとって賛美とは何か

 たかがスポーツ選手の活躍を、我々はなぜあれほどまでに手放しで賛美できるのだろうか。猛練習によって甲子園に出場した高校生は地元の誇りであるが、方や、猛勉強によって東大に合格した高校生は、賞賛されるどころかその成功をねたまれ、存在を無視される。
 香西秀信『「論理戦」に勝つ技術』(PHP)は、そうした心理をつぎのように説明する。

 これはもちろん、われわれがスポーツを学業よりも重視しているからではなく、その逆だからです。人間は、自分のプライドが傷つかないものにのみ、心からの賛辞を贈ることができる。
 何よりも、学業での成功は、将来の社会的地位や経済力と直接的に結びつきます。(中略)しかし、スポーツの場合にはこんなに簡単にはいきません。甲子園に出たくらいで、将来野球で身を立てられるという保証は何もないし、それができる者はほんの一握りで、しかもその活躍は人生の僅かな期間に限られています。われわれはそれがよくわかっているからこそ、彼らの成功を、自尊心を傷つけられることなく賛美できるのです。
(P7-8)

 ということは、その人が何を賛美できるかで、その人のプライドの持ち方がわかる。引退したプロ野球選手が、現役の選手に厳しいのは、やはりその人にとっては自分がすごいスポーツ選手であったことがプライドなのだ。だからたとえ自分より上手い選手がいても、それを手放しで賛美することは、その人のプライドが許さないのである。
 人から、心からの賛辞を贈られたら、警戒した方がいい。相手は自分のプライドがぜんぜん傷つかないからこそ、あなたをほめるのである。他人の自尊心を傷つけない範囲において、あなたは認められるのである。
 論理的に考えれば、そういうことである。しかし感情的には、納得できないという人もいるだろう。人は嘘偽りのない賛辞を求めるし、素晴らしいものを素晴らしいと、手放しで賞賛したいと思っている。しかしそれこそが、プライドというものである。

 よく、人間は論理では動かない、論理だけで説得することはできない、などという物言いを聞くことがあります。おそらく、そのとおりでしょう。が、これは、人間が非=論理的あるいは反=論理的生き物であることを意味しません。事実はむしろ逆です。人間は論理的な生き物であり、論理を、理屈を通すことを最も重視するがゆえに、自分が論理で説得されることを嫌うのです。
 人間は、ただ無意識のうちに説得されるのではなく、自分が説得されていることを明確に意識しています。だから最も重要な論理で、理詰めで説得されることをあたかも精神の敗北のように感じ、それを自分で認めたくないわけです。
 これに対して、感情の操作によって説得されることは、われわれのプライドを傷つけません。情に流されて説得されるというのは、むしろ与える快感を、優越感を得ることができます。われわれは、負けるときは、自分がさほど重視していないもので負けたと思い込みたいのです。
(同書P6-7)

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

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