バカとは何か

 荒俣宏図像学入門』(集英社文庫)を読む。
 荒俣氏によれば、ものの見方には三通りある。バカとボケとパーである。

 まずは「バカの見方」。文字通り、バカ正直に、ありのままを見ることである。
 上の絵を見て「大きな丸と、小さなマルがあるな」と思う。そのまんまである。
 ところがこれに、補助線を引く。

 こうなると、同じ二つの丸でも、近いものと遠いものがあるように見える。ところが、バカにはそう見えない。
 あいかわらず、「大きい丸と小さい丸があって、その後ろに斜線が引いてあるだけ」と思ってしまうのだ。ようするに、円と斜線との間に、何の関連も読み取れないのである。一個一個の要素を単体としてしか認識できない、まさに「バカ正直」。
「専門バカ」と呼ばれる学者などは、まさにこれだという。

「あなたの研究していることは、産業化すればとんでもない大もうけになりますよ」といわれても、「そんな不純なことに関心はありゃせん。わしは魚の頭にしか関心がない」なんていうのは、まさにこの、タコツボ型のバカ的理解の仕方であるわけです。(同書・146ページ)

 つぎに「ボケの見方」。
 たいていの人は、これです。普通の人というのは、何かしら関連づけて考えるくせが身についている。そういう拡張関連付け機能を備えた一般人が上の図を見ると、「遠近法」だとわかるわけです。この絵には奥行きがあって、大きい円が手前にあって、小さい円は後ろにあるらしい、というふうに理解する。
「遠近法」なんていうのは人間が勝手に作った「ダマシ」の技法であるのに、それをダマシとわかって楽しめることで理知的と呼ばれる。こうした「ボケの見方」は、相手が仕掛けてくるトリックにそのまま自分を乗せて、相手の思うがままになる。立体を描いたよ、といわれたら、ちゃんとそう見てしまう。ルールを知ったうえで、それを守り鑑賞する。こういう見方はバカにはできない。
 しかし、これらとは、さらにちがった見方がある。これが「パーの見方」である。
 パーの人には、上の図がどのように見えるか。たとえば、斜線を引いた白い背景ボードに大小二つの穴が開いていて、そこから向こう側の空白が見える、というような見方をするかもしれない。これはもう「遠近法」はおろか、美術のどのルールも破った見方である。

 ふつうの人は、どうしてもこの円が、背景の線よりも手前に存在するものだというふうに見ますけれども、パーの人は斜線を主人公に見てしまう。すると、円は、斜線にあいた穴に見えてくるんです。こういうふうに、通常の掟を破ってしまう見方、これがパーの本質なわけです。(同書・149ページ)

 美術史に当てはめると、バカの極致がリアリズムで、パーの極致が抽象画となる。美術に限らず、「ボケ」の一般人はルールを守り、「バカ」と「パー」はルールを破る。このあたりに創造というものの秘密があるような気がする。