仏教はバカらしい

 横山紘一『十牛図入門』(幻冬舎新書)を読む。
十牛図」という禅の入門図があって、本書はそれを「唯識思想」によって解説している。
 おれは仏教というのは勉強しても得るものがなにもないと思ってるので、こういう本を読んでもまったく改心しない。困ったものである。
 この著者は東大農学部の水産学科で、魚の血液の研究に取り組んでいたのだが、その研究に「疑問と虚しさを覚え」、文学部印度哲学科へ転部し、のちに仏教学者となる。理系のインテリが宗教へ傾倒するのはオウム真理教でも見られたことだが、まあそれはいい。
 著者は悟りの心境を表すものとして、良寛さんの次の歌を賞賛する。
「災難にあう時節には 災難にあうがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候」
 今の時節にはまったく不謹慎な歌であるが、こういうものが悟りの心境だというのである。まあ、仏教の教えは、「一切は空」である。あの世もこの世も、仮の世界。死のうが生きようが、似たようなものというなら、たしかに悟りとはこんなもんである。
 ところが本書の中盤では、自然環境破壊の恐ろしさが唱えられ、なんだか調子がおかしくなってくる。そして次のようなことが書かれる。

 私が勤めていた立教大学で、有志の学生と「タバコポイ捨て撲滅の会」という会をつくって昼休みに構内をまわって地面に捨てられた吸い殻を拾うという運動を長く行ってきました。驚くことに、三十分ぐらいで、なんと数百本の吸殻を拾う日もありました。大学だけではありません。町や都会の中でもこれは大きな問題となっています。まさに現代の人心の荒廃の一つの膿が出ているといえるでしょう。
 構内で吸い殻を拾っているある日、学生たちに「タバコの吸い殻が実は各人の心の中にあるのだから、吸い殻を除去して構内をきれいにすることは、各人の心の中をきれいにすることである」と語ったところ、それ以来、彼らはいっそう吸い殻拾いに精を出すようになりました。
 みんなが共有している構内がきれいになる。それは人のためでもありますが、それが同時に自分のためでもあるという事実を知って、彼らの生き方が変わったのです。
(P184-185から引用)

 ゴミ拾いがしたいのなら、仏教とは関係なくやればいいのである。「トイレの神様」などもそうであるが、おのれの利益を期待して善行を行うというのは、ただの功利主義である。
「善悪」も「正邪」もない、とするのが仏教である。
 ともあれ、どうせ衆生には難しい教えなどわからぬのだから、原理主義を唱えて暴走するよりは、ましなのかもしれない。ついでに書けば、大学生に仏教を講じてゴミ拾いをさせるより、魚の血液の研究をさせる方が、世の中のためになる。
 吉本隆明は、次のように述べている。

 その考え方からいくと現世も無常だし来世も無常だということになりますし、現世が仮の世界だったら来世も仮の世界だというふうに、偉い坊さんたちは代々そういうことを何らかの形でいってきているとおもいます。(略)
 つまり、大師号みたいのを持っている仏教家は生まれる前の世界までイメージでいけるぞというところぐらいまでは、大体修行した人だとおもいます。仏教というのはそういうことばかりしていたわけで、何千年もかかってどこに精神の集中をすればそういうことができるかという修行ばかりしてきたので、ばからしいといえば東洋の世界はばからしいので、文明なんかつくらなくて乞食みたいな格好をして貧富の差の甚だしいカースト制度を造りました。
 少しは社会改革でもしたらいいじゃないかというのに、少しもしないで、座禅を組んで精神を集中すると、あの世の浄福な世界へいけるみたいなことばかりやってきたわけです。
 だから阿呆だといえば阿呆で、西欧の世界は文明をその間何千年もかかってちゃんと築いてきて現代に至っているわけですけど、東洋の世界は模倣して西欧並みになってますけど、本当はそういうことしかやってこなかったのです。
吉本隆明『講演録・文学の戦後と現在』より引用)