悟りというのは、「一切は空である」ということを知ることだ。知ったからといって、どうにかなるわけではない。
釈尊は菩提樹の下で悟りを開いた。そしてその喜びのまま成仏したいと願った。
ところがそこに梵天が現れて、「衆生の救済のために、その法を説きなさい」と告げた。釈尊としては、「自分が悟った法はあまりにも高度なものだから、一般人に説いたところで誰もわかるまい」と思っていたのだが、梵天様の命令とあらば、しかたあるまいと、伝道をすることになった。
釈尊はこの時、本当に悟っていたのか。まだ迷っているじゃねえか。
というのが、鯨統一郎の「悟りを開いたのはいつですか?」という短編小説である。(所収『邪馬台国はどこですか?』創元推理文庫)
「悟りを開いた、と思える瞬間は、ブッダほどの人だからたしかにあったかもしれない。でもそれは真の悟りではなくて、しばらくするとまた迷いの境地にはまりこんでしまうようなものだったんじゃないだろうか」
「なんでそんなことがいえるのよ」
「だって、さっきも言っただろう、ブッダは悟りを開いたあとでまた、悟りを開くための禅をしてるんだよ」
禅とは、真理に到達するために古来よりインドで行われていた方法である。
(P26より引用)
この指摘はもっともである。
さて、おれが考えるに、ここにはまだ問題がある。悟りとは、一般人に説いたところで誰もわからないほど高度なものである。そんなものをどうやって一般人に説けばいいのか。わからないものを説いたって、意味ないではないか。釈尊以外の、誰が悟れるというのか。「馬の耳に念仏」とは、良く言ったものである。
まあ長い年月の中で、これだけ人がいれば、釈尊の他にも、悟りを開いた人はいるかもしれない。
その人はたぶん、「こんな高度な法を衆生に説いたって、どうせ誰もわかりゃしないんだから、バカどもの救済なんかしないで、お先に成仏するわ」と思って、死んだにちがいない。歴史に名を残さず、一言の教えも発せず、一人の弟子も取らず。一切は空である。
おれの考えでは、それこそ真の悟りであり「仏陀」であると思うのだが、どうだろうか。
人生相談なんかやっている坊主など、笑止千万である。