久世光彦と向田邦子

 小林竜雄『久世光彦vs.向田邦子』 (朝日新書)を読む。
『時間ですよ』の原作は橋田壽賀子で、最初の脚本も橋田が書いていた。しかし、久世光彦の演出が気に入らず、ケンカして4回で降板。銭湯で女の裸が出ることが我慢できない、マチャアキ樹木希林のコントが不快、という理由だった。
 久世の誘いで向田邦子が脚本を書くのは、第二シリーズからである。しかし、第三シリーズをあわせても、九作しか書いていない。向田はコントシーンが書けなかった。だからその場面は、樹木希林らが徹夜で作っていた。それなのに、クレジットは「脚本・向田邦子」と出るから、役者たちから不満が出る。向田も、マチャアキがアドリブでセリフを変えてしまうのが不満だった。
 それでも久世は向田の才能を買い、続く『寺内貫太郎一家』の脚本を任せる。だが向田は書く条件として、『時間ですよ』のようなバラエティの要素を極力排するように言った。久世の演出は、コントシーンをなくしたものの、かわりにお茶の間でのプロレスまがいのケンカのシーンを売り物とした。
 その後、久世光彦は、山田太一と組んで『さくらの唄』を作る。しかし、セリフや動きを勝手に変える久世の演出に、山田太一は不快になり抗議した。それからはもう、一緒に仕事をすることはなかった。
 久世は二浪して東大の美学科に入学。同い年の大江健三郎とは親しかった。しかし大江が芥川賞を取ったことに衝撃を受け、自身は小説家になる夢を断念した。TBSに入社後、テレビドラマを演出するが、前衛的で難解な「芸術志向」で、お蔵入り。一年ほど完全に干された。ホームドラマに配属となるが、こんなものに情熱をかける気にはなれなかった。しかし森繁久弥と出会い、「大衆路線」を考えるようになる。お蔵になるような作品を作ってはダメだ、何よりもテレビドラマは、人に見てもらわなきゃ意味がない。商売として割り切って、ホームドラマで食っていこうと決意する。
 向田邦子は早世したのでそうは見えないが、久世より六歳年上だった。向田は『寺内貫太郎一家』のあと、久世とのコンビを解消し、別の演出家と組んで『阿修羅のごとく』や『あ・うん』を発表、さらに小説で直木賞まで受賞する。
 久世は五十歳をすぎて小説を書き始めるがその動機は「向田邦子への嫉妬」だった。
 ということをこの本で知った。おれの感想を書く。
 久世光彦は、向田邦子より自分のほうが才能があると思っていたのだろう。それなのに世間の評価は、彼女のほうが高い。久世は大衆に迎合するホームドラマを軽蔑していたが、向田はそのホームドラマで大成した。向田の才能を見出したのは久世だが、いつしか追い抜かれた。それが気に食わなかった。久世は商売としての「大衆路線」で名声を得たが、本当は芸術的な作品で評価を受けたかったにちがいない。
 向田の死後、なんか「向田邦子新春スペシャル」というよくわからないドラマが何本も放映されていたが、あれを作っていたのが久世光彦の制作会社だった。「向田邦子」という看板をダシにして、その内容は久世色の濃いドラマだった。ある種の復讐かもしれない。しかし視聴率は低かった。久世は二度、直木賞候補になるが受賞できず、制作会社は七億あまりの負債を抱えてつぶれた。

久世光彦vs.向田邦子 (朝日新書)

久世光彦vs.向田邦子 (朝日新書)

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