ちがうものを見ている

別役実は、「演劇とユーモア」というエッセイで、次のような寓話を紹介している。

十年前から芝居が病みつきになって、シーズンごとに劇場に通わずにはいられなくなった男がいた。
或る男が興味をもって「十年前に何を見たんだい?」と聞いてみた。
「いや、どんな芝居だったかは忘れてしまったがね」と、その男は答えた。「三幕のとっぱなで、天井に吊ってあった照明器具が主役の男の頭の上に落ちてきてね、その場でイチコロさ。あんなに興奮したことはなかったよ」
(所収『電信柱のある宇宙』白水ブックス・P175)


 それで思い出したが、おれも十年前に見た芝居で、えらく興奮したことがあった。
 どんな芝居だったかは忘れてしまったが、主役の女が、いきなりおっぱいを見せたのだった。あれ以来、劇場に通わずにはいられなくなった。
 そんなわけで、別役実はつぎのような秀逸な考察にいたる。

 要するに演劇というものはわからない。
 役者や演出家も、究極のところ何をやっているのかわからないままにやっているのだし、観客も究極のところでは何を見ているかわからないままに見ているのである。従って、役者や演出家のやっていることが、そのままに観客に見られているという可能性は、ほとんどない。
 役者と演出家は常にそうでないことをやっているのであり、観客は常に、そうでないものを見ているのである。
 しかも、役者と演出家がひたすらそれをやってみせなければ観客にそうでないものは見えてこないのであり、観客もまた、ひたすらそれを見ていなければ、役者と演出家はそうでないことをやり続けるわけにはいかないという悲劇的な法則が、そこにはある。
(同書、P174)