死ぬのがこわい

 テレビには、いやなやつばかりが出ている。それでも、ああ、この人たちもいずれ死ぬんだなあ、と思うと、少しは気が晴れる。

 時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐ろしいことに、それは真実なのだ。
(村上春樹風の歌を聴け講談社文庫)

 眠りにおちいるまえにおれは恐怖におそわれるのだ。死の恐怖だ、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたびに胸がむかついて吐いてしまうのだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に! おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたびに恐怖に気絶しそうだ。
大江健三郎『セヴンティーン』新潮文庫)

 私はかなり若いころから、死というものに強い悶心を持っていた。中学生のころからだと思うが、自分が死ぬ場面を想像しては、恐怖にとらわれるということが、何度もあった。死んでいくとき、自分は何を考え、何を感じるのだろうかと考えはじめると、恐怖にかられて、何か固いものが喉に詰まったようになり、つばをのみこむことすらできない状態になった。
 そんなことを考え続けるのはいやなので、死の問題を頭から追い払おうとするのだが、いくら追い払おうとしても、強迫観念的に、自分の死の場面が頭の中に何度でもよみがえってきてしまうということがあった。そして、考えても、考えても、死の何たるかがわからず、死の恐怖が去らず、長じても死の問題で煩悶を重ねることになった。私がやがてだんだん哲学づいていく根底には、この死の恐怖の問題があったのだと思う。
立花隆『生・死・神秘体験』書籍情報社・25-26ページ)

 小学生の頃であるが、自分もいつか死ぬのだと気づいて、えらく恐くなったことがある。それからいろんな本を読むようになって、死を恐れているのは、おれだけじゃない、そのことを知っていくらか慰められはしたが、すぐにそんなものは何の慰めにもならないのだと気付いた。人生でどれほど成功しようが、年老いようが、死の恐怖が去ることはない。まさに、死ぬまで。
 黒澤明の映画『生きる』について、椎名麟三は、こう述べている。

 死が全面に立ちふさがっている人間にとって小公園さえも無意味であるはずであるのにもかかわらず、そのことは何も説明されていないのである。
 人々は、このことに黒澤氏の善意をいい、ヒューマニティを見るのだが、僕に云わせれば、そんなものはセンチメンタリズムにすぎない。胃癌や死を、仰々しく渡辺勘治に背負わさなくても、何もしないよりは、何かしたほうがいい、ということは自明である。
 僕は黒澤氏に考えてもらいたい。死は主体的な不条理として、生全体の意味を失わせるものなのだ。
(『全集・黒澤明』第三巻・岩波書店・「批評史ノート」より)

 人生でなにを成そうが、どう生きようが、そんなものは「死」と何の関係もない。

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