種田山頭火の、書を見たことがある。
べつにそれが目当てではなく、とある展覧会に行ったら、会場の一角に展示してあった。
短冊に筆と墨で、「まつすぐな道でさみしい」だの「分け入つても分け入つても青い山」だの、くだらぬ俳句が書いてあった。その字がなんとも、いやなものであった。
下手なくせに、自己主張が強いのだ。喜捨のお礼に一筆書かせていただく、といったものではなく、俺がおまえらに書いてやる、といった傲慢な性格を感じた。
文学者に特有の傲慢さである。自分には特権があり、なにをしようが、誰を傷つけようが許されるのだ、という思い上がった態度である。それでいながら中身がない。坊主の姿をして俳句を詠むのは、コスプレ趣味のごときものである。
俗物である。
こんな乞食坊主を、聖人のごとく崇めるやつらもまた俗物である。
じつにいやなものを見たと思った。私は急いでその会場から立ち去った。
しかしこんなものは、私の印象でしかない。直筆の書から受けた印象を述べただけである。ほかには何の根拠もない。しかし、文は人なり、とも言う。 印象や直感が正しい場合も往々にして、ある。
そんなことを思ったのは、のちに丸谷才一の『横しぐれ』を読んだからである。
その中で、小山栄雅『山頭火の漂泊』という本が紹介されており、次のように書かれている。
この時期の山頭火は、殆ど行乞をしていないし、怠惰をきめこんで、年少の友人国森樹明などが、三日置きぐらいに届けるふるまい酒に酔って、定住での「生」意識の暗黒に身を寄せる。
行乞をしないのは、経済的にゆたかになったからでは決してない。山頭火は行乞が嫌いなのである。
そのくせかれは、友人たちからの食物の援助や金銭の援助は平気で受けた。(中略)
中田潤一郎は『私にとっての山頭火』という小論(文芸山口八十号)でつぎのように云った。
「木村緑平その他山頭火の俳句の友は彼に何度となく送金をせがまれ、その度に少なからずの金を送金している。そればかりではなく妻の咲野にも、又、自分が面倒を見たことのない一子健にまで金を送らせている。
彼が人と人との間に入ったときのあの繊細な傷つき易さに較べて、人に無心をするときのあの鉄面皮とも言える強引さは先の嬰児的な自我主張の強さと同一である」
(引用終わり)
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