部活って何の役に立つんですか

書道ガールズ』だっけ、成海璃子が好きだから見てもいいんだけど、どうせテレビでやるだろうし、ストーリーもまた例のあれだろ、高校生が部活でがんばるという、だからチラシだけもらってきた。
 男子のシンクロに、女子のジャズバンド、野球、サッカー、バレー、合唱、バスケ、卓球、ボート、ロック、俳句……、さすがにこれだけ似たような映画が作られたら、飽きるよ。
 それより、ついていけないのは、部活でがんばるのが青春!みたいな風潮ね。
 ろくに勉強もしないで高校生活を部活に費やして、それで何が得られるのか。
 プロになったり大会で優勝できた生徒はまだいいけど、同じだけ練習して、予選で敗退した生徒の青春とはなんだったのか。ずっと補欠だった生徒にも青春はあるのか。目標に向って努力する大切さとか、チームメイトとの友情とか、そういうことが得られたとしても、別のものを失っているのだ。
「数学ってなんの役に立つんですか」と質問する生徒ほど、部活動は熱心だったりする。じゃ訊くけど、部活って何の役に立つんですか。
 すくなくとも、数学は受験勉強の役に立つ。いい大学に入り、いい職に就くという、立身出世の役に立つ。親の代よりいい暮らしがしたいなら、数学こそ勉強すべきだ。勉強が苦手というのは、部活ばかりやってるからで、部活に費やす時間と努力を、勉強に向ければ、少しは成績が上がるだろう。
 そういう世の中のシビアな現実を教えずに、部活でがんばるのが青春!などという風潮に、おれは違和感を覚えるわけだ。勉強ができない生徒でも、部活動では輝ける、なんて言い方はとても残酷である。その教師は勉強のできない生徒の将来を見限り、おまえはどうせバカだから部活でもやってろ、と言ってるのに等しい。
 部活で輝いたところで、野球やサッカー以外は、プロにもなれない。それだって狭き門である。たいていは、野球好きの会社員や、水泳がうまい工員や、トランペットが吹ける店員や、バスケの得意な作業員や、カラオケのうまい主婦になるのであろう。
 大人になれば、そういうのは「趣味」と呼ばれてしまうのだ。

「体育座り」という奇妙な座り方がある。
 ひざを立てて座り、そのひざを両手で抱える。1960年代以降に学校教育を受けた者なら、おなじみの座り方である。
 竹内敏晴によると、これは日本の学校が、子供たちの身体に加えたもっとも残忍な暴力だという。
 両手を組ませるのは「手遊び」をさせないためである。首も左右にうまく動かせないため、注意散漫になることを防止できる。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せない。

 手も足も出せずに息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。
(竹内敏晴『思想する「からだ」』より)

 この本に言及した内田樹は、さらに次のように指摘する。

 生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの坐り方にたどりついたのです。
 しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。
 浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。
 竹内によれば、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で、一九五八年のことだそうです。これは日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使の実例だと思います。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書・P106) 

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