アホバカまぬけ考

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸なものである」という言葉があるが、これはほかのことにも応用できそうだ。
 かしこい人はどれも似たものだが、バカはそれぞれにバカである。
 成功者はどれも似たものだが、失敗した人はそれぞれに失敗している。
 名作はどれも似たものだが、凡作はそれぞれに凡作である。
 まあようするに、 天才とか成功者とか名作なんてものより、バカ・落伍者・失敗作なんてもののほうが、本当は、おもしろいんじゃねえか。
 名作というのは、たしかにおもしろいよ。でも、みんなが認める面白さってのは、必然的に似通ってしまう。それより、くだらない作品の方が、バリエーションが豊かで、本当はおもしろいんじゃないか。
 しかし、そう結論づけてしまうのもただの俗物哲学なんで、もうひとひねりすると、たいていの「バカ・落伍者・失敗作」だってパターン化されている。自分は個性的であると思っているバカは、やっぱりただのバカである。
 本当に飛びぬけて個性的なバカというのは、めったにいない。もしそういう人がいれば、それはやはり天才に等しい。
 筒井康隆『アホの壁』(新潮新書)を読む。以下引用。

 自分の価値観にだけ頼るアホ


 例えばある思想に感銘を受けて、すべてをその思想で割り切るようになると、視野の狭窄に陥りやすい。社会思想を勉強したせいでいびつな社会観や社会正義を振りかざすようになったりしたのでは、もとも子もないのである。
 早い話が左翼小児病というやつで、こういう人が作家になればいわゆる社会主義リアリズムの作品を書くことになるが、よほどしっかりした社会的良識がないと失敗する。凡庸な作家の場合は登場する政治家や、会社の社長や重役、金持などはすべて悪人、労働者はみな善人というのだから、すぐ読者に飽きられてしまう。
(略)
 これが映画監督であれば、社会的視野がよほど広くないと、いびつな作品を作ってしまう。戦後すぐにはいわゆる傾向映画というものが多かった。ほとんどが駄作であったが、その時代を経てきていたり、マルクス思想にかぶれた監督は、下町の人情話の名作を社会主義リアリズムの手法で撮り、滅茶苦茶にしてしまう。
 学生運動を経てきたシナリオライターはなぜか流行作家と折り合いが悪い。あいつに作品を滅茶苦茶にされたという愚痴はよく聞くところだ。
 また、古臭い前衛やシュールリアリズムにかぶれた監督も困りものである。自然主義リアリズムの名作をモンタージュ技法で撮って作家や原作のファンをかんかんに怒らせてしまう。
 より下のレベルでは、エロティシズムの表現に無上の価値観を持つ監督がいて、清純な物語にエロチックな場面を散りばめるなどの暴挙に出る。また乱闘場面の得意な監督は、原作にはない喧嘩のシーンをえんえんと見せたりもする。
(略)
 こだわりがひとつかふたつというのでは、あきらかにプロとしての才能に欠けている。
 誰でも一度成功したり褒められたりしたものは、また同じ気分を味わいたくて、それが唯一の価値観になりやすい。同じことばかりやっているせいで失敗しても懲りずに何度でもくり返すのはやはりアホである。
(P143-145、引用終わり)

アホの壁 (新潮新書)

アホの壁 (新潮新書)