反対すれば地主が儲かる

 沖縄の基地問題であるが、テレビや新聞の報道を見ると、じつに単純な構図である。沖縄の人たちはみんな米軍基地に反対しているのに、政府がゴリ押しして、けしからん。善良な市民を苦しめる悪い政治家ども。沖縄の美しい心を踏みにじるな。あいかわらずである。
 しかし、わが国は民主主義ではなかったのか。沖縄から米軍基地を撤去したい、と本気で考えているのなら、日本共産党に投票すればいいのである。筋を貫く共産党である。必ずや沖縄からすべての米軍基地を撤去してくれるはずである。ルーピー鳩山などを、あてにするほうが悪い。
 幸いにも今年は、参議院選挙とともに、名護市長選挙、沖縄市長選挙、県知事選挙がある。これらすべてに共産党の候補者を当選させれば、やつらはびびる。私もびびる。選挙で沖縄は変わる。デモや抗議集会を開くより、よっぽど冴えたやり方である。沖縄の心はひとつ、というならぜひそれを見せてほしい。
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 本気で米軍基地をなくしたいのなら、軍用地を政府から奪い返せばいいのである。
 沖縄本島にある米軍基地の用地は、その64パーセントが私有地と市町村有地である。これらの土地は日本政府が借地料を払って借り上げ、軍用地としてアメリカに無償で提供している。
 アメリカ統治時代は、アメリカが直接、住民と賃貸契約を結んでいた。それが本土復帰後、アメリカの代わりに日本政府が、土地料を一気に六倍に引き上げて借地業務を始めたのである。
 借地料総額は年間821億円。これが地主である個人、市町村に支払われている。私有地の場合、地主の数は約2万8千人。自分の土地を米軍に供与しておきながら、「米軍は沖縄から出ていけ」もあるまい。まずは基地内の自分の土地を奪還するのが、筋というものである。土地を貸す者がいなければ、基地も作れまい。
 さらに言えば、政府を批判しつつ、その政府から借地料を受け取るというのも、どうか。なかには、年間に7千万円の借地料を受け取っている軍用地主もいるという。こうした契約を拒否する「反戦地主」もいるが、その数は100人強で、全体の0.4パーセントにすぎない。
 沖縄の土地所有の公図は、沖縄戦ですべて焼失してしまっている。そのうえ、フェンスで囲まれてしまったので、どこに誰の土地があるのかはっきりしない。そこで戦後、自己申告によって取り決めた。まあ戦後のどさくさだから、なかには虚偽の申告をして、それがそのまま認められた者もいた。
 これら軍用地についてのことは、高橋秀実『からくり民主主義』(草思社・2002年)に書いてある。(「反対の賛成なのだ-沖縄米軍基地問題」)
 この本には、新聞やテレビでは報道されない、沖縄県民の声が収録されている。それを紹介してみたい。
 基地内にある市町村有地の借地料を受け取ることを金武町では、「おがむ(拝む)」という。しかし、借地料の恩恵に預かれるのはおもに戦前からこの地に住む「地元」の男たちであり、戦後に移住してきた「寄留民」は一切もらえない。そうしたことから町民の間で、貧富の差が生じている。

 おがむ人とおがめない人の反目。これは金武町に限らず、どの基地の周辺でも見られることである。戦後五十年にわたり軍用地料という不可解な金が一部の人間に注ぎ込まれる。同じ被害の地にありながら片方だけに恩恵がある。
 そこで基地周辺の飲み屋などでも、軍用地主がいかにだらしない暮らしをしているかという陰口に花が咲く。札束を持ち歩き女を買う、方々にヤマダニ(私生児)をつくり一日中、飲んだくれるという軍用地主物語が流通する。フェンスの内に土地を持つか否かで人間関係はきしみ、地元と寄留という差別構造もいびつな形で固定される。(142ページ)

 年間五〇〇万円をおがむ、地主の青年は訴える。
「基地が返還されたら大変です。あの土地はフェンスの向こうにあるからいいんです。返ってきたら財産争いで大変なことになってしまいます。区有地などは借地料を受け取るために名義だけで、本当は誰の土地かなんてわからないんですから。返還されたら何かにまた囲ってもらわないと、街はパニックになるでしょうね」
(143ページ)

「沖縄は基地でかわいそうなんて、ヘンな同情しなくていいですよ。沖縄の人間は服従しつつ、ちゃんとウラでは画策します。沖縄戦のとき、日本兵が逃げて、米兵が上陸してくるのを竹薮の中でじっと見ていたようにね」
 フェンス近くに住む地主のおじさんは言う。本土復帰前は本土でセールスマンをしていたが、復帰後、借地料が六倍になったので「おがみ」に沖縄に帰ってきた。
 返還されたらどうします?
「いや絶対されないサ、ここは大丈夫サ」
 各地で返還運動しているけど……。
「あれはあれで助かってるサ」
 助かる?
「そう。基地に反対してくれれば、借地料がまた上がるサ」
 彼はそう言うと、時速四〇キロしか出ないボロ車に乗って帰っていった。両親名義で五〇〇万円近い借地料が入る彼は、目立たないようにわざとこういう車に乗って町を走るのである。(146ページ)

 辺野古の青年部長も憤る。
「そもそもヘリポート基地が普天間からここに移設になったのは、地元の人がうるさい、うるさいと訴えたからってことになってるでしょ。もともと地元の人たちはそんなこと言ってないですよ。皆、慣れてますからね。五年前の少女暴行騒ぎで本土からマスコミがどんどんやってきて、『うわー、うるさい』『沖縄はこんなひどい所なのか』とか言うから、『あっうるさいんだ、うん、確かにうるさい』と気づいて、『うるさいぞー、出て行け』となったんです」
 普天間飛行場は沖縄の「痛み」の象徴だった。高台から見るとわかるが、普天間飛行場は市街地の中央部にどんと居座っている。そのため、何をするにも基地に沿って迂回せねばならず、「町の発展を阻害するもの」として即時返還すべし、とされた。しかし考えてみれば、市街地ができたのは基地が建設された後である。
(中略)
 基地の「地の利」を生かし、「計画的に」次々と建物が建ち、多くの人が移り住んだ。一九五七年には人口が戦前の一〇倍にふくれあがり、翌年には軍用借地料で宜野湾村は新庁舎を建設した。基地の近隣に住む九十歳の宮城ヤマーさんは「いまの若えものはしあわせだよ」(沖縄タイムス・夕刊、一九五七年十月四日)とコメントまでしていた。
 辺野古の青年部長が続ける。
「要するに、養豚場と同じなんですよ。郊外に養豚場があるでしょう。大体周辺は土地が安いから、人がどんどん引っ越してくる。そのうち『くさい』と誰かが言い出して、『そう言えばくさい』、テレビ、新聞に『くさい、くさい』と出て、『くさいから出てけー』と言うようなもんです。まあ、おかしな話になっちゃいましたよ」
 普天間飛行場には二〇〇〇人の軍用地主がおり、年間四七億円の借地料を受け取っている。返還の決定はかなりショックだったらしく、「国からは一切何の相談なく、余りの驚きに気が動転し、不安と不信感で一杯だった」という。
 同地主会のアンケートでは、七〇パーセントが「返還を希望しない」と答えており、四七パーセントが「借地料が切れると生活が困窮する」。基地経済から自立すべきという声もあるが、地主の六割が六十歳以上である。返還されて厄介ごとを抱え込むより、借地料暮らしのほうが楽と考えるのは道理である。
(152-3ページ)

 同書収録の「危険な日常-若狭湾原発銀座」というルポでは、原子力発電所の建設によって様変わりした村が取り上げられている。これもまたマスコミが伝える善良でかわいそうな市民像とは、まったく異なる姿である。
 政府からの莫大な補助金によって、それまで町へ通じる道路さえなかった過疎の村に、豪華なリゾート施設や野球場ができ、村民もそうした生活を享受している。原発で事故がおきれば、どこへ逃げてもムダでどうせ日本人全員が死ぬのだからと、避難訓練さえしない。
 これを、したたかというのか、欲ボケというのか。市民とはこういうものである。


からくり民主主義 (新潮文庫)

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