ぷち香山リカ症候群

香山リカというのは、そのふざけた芸名からして、何をやってもまじめに取り組んでいるような気がしないのだが、まじめに話しながらも腹の中ではへらへら笑って人を小馬鹿にしてそうな、あんな態度でよく精神科医がつとまるもんだ。いや、いまは立教大学教授だっけ。
じつのところ、おれはそれまで香山リカというのをそれほど嫌いではなかった。というのも、香山リカの名付け親が山崎春美ということもあり、彼女はディープに80年代カルチャーに関わってきたのだと思ってたからだ。
それで、『ポケットは80年代がいっぱい』(バジリコ)を読んでみたんだけど、残念ながらそれらはおれの勝手な誤解であり、買いかぶりだったことがわかった。
「最先端のカルチャー情報が飛び交う、ちょっと危険な香りが漂う文化サロン。その過激で濃密な交流の日々とは?」
というのがこの本の宣伝文句であるが、ずいぶんな誇張である。香山リカにはぜんぜん「危険な香り」などないし、「過激で濃密な交流」もない。
当時、香山リカの周囲には、危険で過激で、かつ文化的な人間がいたんだけど、香山リカ工作舎の関わりは薄いし、彼女が編集した『HEAVEN』なんてわずか8ページのミニコミだし、バンドに参加したといってもキーボードでノイズを鳴らしていただけだというし、ついでに山崎春美とはセックスもしていないと書いている。*1中森明夫とはどうだったのか。それはさておき、暗黒舞踏や山崎晴美の音楽活動に対する冷淡な評価をみると、そもそも香山リカに文化的な感性があるのかさえ疑わしい。

私は、リアルタイムで『HEAVEN』にかかわり、「ゼビウス」で徹夜し、ナイロン100%で勉強してパルコの「モダーンコレクション」のステージにも上がった、というしょうもない自負心。
それがどうした、と言われれば、どうもしないのだが、「わかってくれる人にだけわかってもらえればそれでいい」という排他的なその自負心は、いまだに私自身も捨てられない。
(216ページ)

まさに、「それがどうした」といった体験である。関心領域が狭すぎるし、かといってマニアックに惑溺したのでもない。ただバンドの人数合わせでパルコのステージに上げられてキーボードでノイズを出していた、というような、たまたまそこにいた、という体験でしかない。体験を語るだけでやめておけばまだしも、香山リカの悪いところはそこから社会批評をやりはじめるところだ。

このように、「80年代」とひとことで言っても、そこで見ていた風景、感じていた気分は、それぞれの人によってかなり違うのではないだろうか。当時は今のように「格差」も目立たず、とくに若者は「勉強さえすれば、誰でもよい学校に入り、よい会社に就職できる」、あるいは「学歴がなくてもタイミングと才能さえあれば、目立つ存在になるチャンスがある」といった”機会の平等幻想”をがっちり与えられていた。
(208-209ページ)

まったくのデタラメである。
80年代が格差社会だったことは、当時のベストセラーで、「マル金マルビ(貧)」の流行語を生んだ渡辺和博の『金魂巻』(1984年)にはっきり書かれているではないか。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(1980年)だってそうだ。
80年代にも、いまと同じ社会問題はあった。香山リカが気づかなかっただけで。
そんなこと普通に考えればわかりそうなものだが、彼女はどうも歴史を勉強するとか、ものごとを深く掘り下げて考えてみるとか、そういう努力をする気がまったくないようだ。自分に都合のよい決め付けと、ただの思い込みをつらつら語ることができれば満足なのだろう。
これと比較すると、山梨県から上京して80年代カルチャーに触れた林真理子の批評眼の方が、はるかにすぐれていた。ナイロン100%などたかだか50人程度の客の前でパフォーマンスをやればそれが伝説になるような狭い業界内の「文化サロン」になじめなかった林真理子は、たとえば如月小春のような存在を辛辣に批判していたし、その批判は正しかったとおれは思う。

『ポケットは80年代がいっぱい』によれば、香山リカミニコミ誌『HEAVEN』の編集を任されたとき、「ある島で流行した特殊な伝染病」というウソの医学記事を書いてページを埋めたという。*2
「ウソを本当っぽく書いたり真実を茶化したりすることは、私にとっての仕事の原点であったわけだ」というのだが、こうした「いいかげんさ」というのは今も変わっていない。そのバックボーンとなっているのが、80年代に流行したニューアカであろう。
大澤真幸は『戦後の思想空間』(ちくま新書)のなかで、次のように書いている。

ニューアカと呼ばれた人自身は、まだいいのですが、悲惨なのは、ニューアカで学んだ人たちですね。(略)おそらく浅田彰を当時大学に入りたてとか、高校ぐらいで読んでしまった人たちは「ニューアカみたいになりたいな」と思ってやったので、とても悲惨なことになっているんです。

たしかにニューアカだのスキゾキッズなどと騒いでいた連中は、とても悲惨な末路をたどり、それはそれでけっこうなのことだが、なぜか香山リカは生き残っている。
まあ、見る人が見れば、西川史子とかいう女医と似たようなタレントにすぎないとわかると思うが、それでも香山リカが文化人として発言力を増すにつれて、社会に悪影響を及ぼすであろうし、批判の必要を感じる。
そもそも香山リカが言うような80年代の文化や思想が、それほどエポックメーキングなものだったのだろうか。
スガ秀実『1968年』(ちくま新書)を読むと、香山リカが飛びついたような文化状況は、すでに60年代後半に出現していたことがわかる。難解な思想雑誌であった『パイデイア』は、のちの『現代思想』『エピステーメー』などの先駆となるものであった。
香山リカの造語である「ぷちナショナリズム」といった国家主義的な傾向も、スガによれば、もっと歴史的な背景があるのだと詳述されている。*3

吉田喜重の映画『煉獄エロイカ』に出演したこともある「ピース缶爆弾犯人」牧田良明についての、スガ秀実の記述は、同じ80年代消費社会を論ずるものであっても、香山リカなんぞより、はるかに深い知識と洞察に裏付けられている。

三菱重工社長・牧野與一郎の子息であった牧田は、三菱の金を流用して(?)、八○年代消費大衆消費社会を先取りするかのような、流行の先端を行くライヴハウスや広告代理店を、七○年代初頭に作ったりもしていた(すべて失敗)。六八年以降現在にいたるポップカルチャーの先駆けであり、これらの問題をフォローしている久山信も指摘するように、八○年代のセゾン文化へと継承されるひそかなムーヴメントである。それは右翼や偽史運動ともコラボレーとしていたのである。
もちろん、これらは単線的な出来事ではない。さまざまに絡み合い、敵対しながら進行した。すなわち、「地と大地」に根ざしたドイツ型ファシズム(ナチズム)と未来派芸術運動の科学テクノロジーに親和的なイタリア・ファシズムという二つの型が、やはりその二面を持っていたスターリニズムをも巻き込んだように、「融合」をとげてしまったのである。
スガ秀実『1968年』208-209ページ)

香山リカが傾倒したニューアカやテクノ、あるいは『遊』や暗黒舞踏といえども、そのルーツを探ればこうした時代にいきつく。しかし香山の書く社会批評のようなものは、歴史的な視座を欠いている。目先の現象と、自分の思い込みが書き連ねられているだけであり、稚拙な感想文にすぎない。なぜこのような人がマスコミで重宝されるのであろうか。
中沢新一との対談で、香山リカはこう語っている。

でも私はそんなステップアップの意識もなくて、文学とかを順々に読んだりもしないで、いきなり「これからはドゥルーズの言うリゾームとかいうものが流行るらしい、歴史も哲学も自分の好きなものを無茶苦茶に接続していいんだ」みたいなことを思っていたから、昔のものはもう読まなくていい、好きなところだけつまみ食いすればいいんだって思ってた。哲学とか古典とかを読まなくても、いきなりヴィトゲンシュタインを引用してもいいんだ、って変な正当化がされてしまったんです。
(『ポケットは80年代がいっぱい』所収・186ページ)

こういうのが大学教授になって、学生を指導しているのかと思うと、暗澹たる気分になる。若い時には、そういう誤解もあるだろう。しかし50歳も近い大学教授が、いまだにこんなことを正当化してどうする。ドゥルーズヴィトゲンシュタインのいったい何をどう理解しているのか。
同じく中沢新一との対談から、政治運動についての香山リカの発言を引く。

私や、いとうせいこうさんとか島田雅彦さんとかは、男も女も関係なく、別になにも活動してないんですよ。湾岸戦争のときに、反対署名をしたくらいじゃないですか、結局。それぞれの領分では発言してるけど、社会参画してるかっていえば、べつにそうでもないんですね。いとうさんなんかは、すごいセンスがよすぎて、あんまりダサイことをしたくなかったんだと思うんです。
私はこの間の東京都知事選のときに、浅野四郎候補の勝手連をやったんですよ。でも、左翼の集まりって、着物を着てデモをしましょうとか、ほんとにダサくてしょうがない。永六輔さんとか、そのへんの人と一緒にやったんだけど、ちょっとこれじゃあ世の中に通らないだろうと。
(198ページ)

だけど、カッコ悪くても、もうそれしかないんですよね。いとう(せいこう)さんなんかは、とても恥ずかしくて、やりたくなかったと思う。私も本当はしたくないんだけど、しょうがないからやったりして。ちょっとすごい複雑な気分です。
(198ページ)

そういう反体制的な、石原都知事に反対するような勝手連とかでも、80年代っぽい人が誰もいないんですよ。結局、永六輔さんとか、中山千夏さんとか、そういう人がいちばん元気で。
このあいだ斎藤環さんが朝日新聞で、自分はすごく消極的な護憲派だけど、それは自分の関心事の中の優先順位でいうと20番目ぐらいのところなので、あえて語りたくはない、と書いていた。精神科医としては、政治的な信条を公にすることで治療上の差しさわりも出てくるので、それもあって自分は書かないようにしてきたんだ、って書いてあったんですよ。私はそれを読んで、あ、そうなんだ、言っちゃいけないんだって思って。またすぐ影響を受けてしまった(笑)
でもそのあとに、ある学会で北山修さんに会う機会があったので、斎藤さんがこう書いてましたと言ったら、「基本的に、精神科医は自分の個人的な信仰とか思想を言っちゃいけないんだよ」って言われた。ああ、やっぱりそうですかと言ったら、北山先生が「でも君は、憲法に関しては言わなきゃいけないと思っているから言ってるんでしょう。精神科医としてはルール違反だけど、言わざるを得ないから言ってるんだよね」って言われて、「あ、そうです」って、また元気になったんですけど(笑)。斎藤環さんのように、護憲を表明するとしても「消極的護憲派」というのは、逆の意味ですごく80年代的な感じがするんです。でも、もうそう言っちゃいられない、という気もしていて。
(199-200ページ)

こうして引用した箇所だけでも、読んでいてイライラする人が多いのではあるまいか。香山リカの文章や発言には論理性も一貫性もなく、次から次に思いついたことを、「無茶苦茶に接続」しただけである。こういうのが香山の考える「80年代的な感じ」なのであろう。しかしそれは電車の中や、美容院や、居酒屋などで今も昔も繰り広げられてるムダ話と何ら変わるものではない。
あとがきで香山は、村田晃嗣政治学者)の『プレイバック1980年代』(文春新書)を批判して次のように書く。

ゲームセンター、略してゲーセンで100円玉をマシンの上に高く積み上げて独占し、塔の最上階に幽閉されているカイを助けるべく深夜2時、3時までリザードマンやメイジと戦っていた大学生の私と、「ファミコン? ああ、あれで子供が太ったんだよね」と言い放つ村田氏は、本当に同じ時代を生きていたのだろうか。とても信じられない。私が毎日、深夜までゲーセンや「ナイロン100%」にいた時、村田氏はゲームもせずテクノポップも聴かずニューアカ本も読まず、ひたすら政治学の勉強に励んでいたのだろうか。
(206ページ)

私としては「ゲームもしない、テクノやパンクも聴かない、ニューアカにも接触しない村田さんは、当時いった何をしていたのだろう」と不思議なのだが、おそらく村田氏が私の80年代の生活を知ることがあれば、「外交、内政、経済問題などの勉強もせず、かといってボディコン、ティファニーなどにも興味を持たず、いったい何をしていたのだろう」と不思議がることだろう。
(208ページ)

このあたりになると、もう香山リカの文章は奇怪である。
自分が夜な夜な遊び狂っていたとしても、一方で、まじめに勉強している学生はいる、そんなことは当たり前である。驚くことでもなんでもない。むしろ他者の生活や心情に想像が働かない香山の方が異常である。
80年代の学生はすべて、香山のように親に買ってもらったマンションで優雅な独り暮らしをしていたとでも思っていたのか。
政治や経済について勉強してこなかった香山リカの社会批評になど、どれほどの価値もあるまい。テクノとパンクを一緒くたにする香山の文化批評にも、何の意味もあるまい。ワイドショーのコメンテーターをやろうが、うすっぺらい新書を書き飛ばそうが、「九条の会」や「ピースボート」に参加しようが、どうせこの人の考えは、「私も本当はしたくないんだけど、しょうがないからやったりして」というものに過ぎない。
香山リカは自分自身をどう分析しているのだろうか。
自分は知識人であり、社会批評家であり、私の知性と提言が世の人々に広く受け入れられているのだ、と考えているのだろうか。おれにはそうは思えない。西川史子と同じように、毛色の変わった女医タレントとして、笑われ、バカにされているだけではないのか。
新宮一成は『ラカン精神分析』(講談社新書)で、「自分を分析家だと思っている分析家は、自分を分析家だと思っている精神病者と同じだけ、気が狂っている」(261ページ)と書いたが、香山リカというのはまさにそういうものであろう。

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

*1:その後、21世紀になってから、ネットの掲示板などで「山崎春美香山リカはできてた」などと繰り返し書かれたが、正直に言って春美やその周辺の人たちと恋愛関係とか肉体関係になったことは、ただの一度もない。それから15年以上たって再会したとき、春美はぽつりと私に言った。「あのとき、自分のまわりにいた女で、寝なかったのはカヤマさんだけや」私は「え? ということはあの人もあの人も……?」と驚きながら、「自分だけが対象外」という事実に喜んでいいのかどうか、ちょっと複雑な気持ちになった。(『ポケットは80年代がいっぱい』71ページより引用)

*2:私は「ある島でだけ流行した謎の伝染病」の話を書いたが、もっともらしくウィルスの解説などもしながら、それはまったくのでっち上げだった。「医学生がでっち上げ医学記事」というのは今でなら社会問題にもなるかもしれないが、当時の私は、そのあたりの倫理観が完全に麻痺していた。言い訳めいて聞こえるかもしれないが、そもそも私は『遊』のパロディ記事の完成度やバカバカしさに衝撃を受けたのがきっかけで、春美と仕事をすることになったのだ。ウソを本当っぽく書いたり真実を茶化したりすることは、私にとっての仕事の原点であったわけだ。いちばん楽しかったのは、なんといっても医学生という立場を悪用した”医学のウソ”だった。倫理違反、ルール違反をしている、見つかったら退学だろうか、とおびえるのもスリリングで楽しかった。春美のまわりには、本やレコードを万引きしたり大麻を吸ったりしている人も少なくなかったのだが、そういう人たちは法律にもこだわることなく自由に生きているように見えて、少々うらやましかった。とはいえ、私にはそこまでのことをする勇気もなく、せいぜい”医学のウソ”を書いてはドキドキするのが関の山だったのだ。(『ポケットは80年代がいっぱい』240-241ページより引用)

*3:「第4章・ヴァーチャルな世界のリアルな誕生・右翼と左翼の奇妙なコラボレーション」を参照のこと。簡単にまとめると、1956年のスターリン批判以降、吉本隆明をはじめとする多くの知識人は、西欧輸入思想への反発から、「土着的なもの」への再評価に向った。ほかにも、澁澤龍彦らの異端趣味であるとか、偽史運動の代表的な雑誌『地球ロマン』。大田竜、平岡正明竹中労らの「世界革命浪人(ゲバリスタ)」。これらは、「異端」=「サブ」であることが、それ自体で真実を補償するはずだという新左翼のスタンスの必然的な帰結だった。70年代には、新左翼の過激化と同時に、「新右翼」と新左翼のコラボレーションとも言うべき事態がしだいに開始されていく。70年代から80年代に至る過程の中で、偽史的想像力はマイナーな領域から、しだいに大衆的な「文化」となって浸透していく。