はたち過ぎればただの官僚

 TBSの『官僚たちの夏』だけど、こういう紙芝居みたいなドラマを当の官僚たちはどういう思いで見ているんだろうなあ。
 頭がよくてエリート意識のある人間というのは、一筋縄ではいかない屈折の仕方をしているもので、たとえ国家的なプロジェクトに関わっていても、その意識は「刺身の上にタンポポを乗せる仕事」と同じようなむなしさを感じているのではなかろうか。
「生きがい」とか「やりがい」のある仕事というのは、決して給料の多寡や社会的地位で決まるものではない。
 四方田犬彦の『ハイスクール1968』というのは、進学校の生徒だった著者の青春を描いた自伝らしいが、*1それについて高田里恵子がこんなことを書いている。

 じじつ、四方田犬彦が、若かった自分自身へのアイロニーを込めつつ描く、高踏派的な(と同時にスノップな)読書と映画趣味、個性あふれる天才肌の(しかも良家の子息たる)同級生たち、(小学生時代には進学塾に通っていたが)受験勉強への軽蔑、(授業エスケープと本の万引き行為を含む)反体制的なメンタリティは、旧制高校教養主義の最良の部分を伝えてくれるだろう。
 しかし四方田の回顧的記述からにじみでてきてわれわれを感動せしめるのは、かつての天才少年たち(中学時代にトップの成績で入学した少年は新入生代表の挨拶の代わりに北爆批判を展開したという)が、いまではたんなる外交官、たんなる医者、たんなる高級官僚、たんなる幹部社員、たんなる東大教師になっているところである。
 もちろん、こうした存在は世間的にはエリートと呼ばれるのだろうし、彼らじたいも断じて出世主義者なぞではなく、ただ自然にそうなったまでなのだが、ここで問題にしたいのは、彼らが悲しいくらいマトモで普通であること、そして彼らが、世間の評価なんかに惑わされず、自分の普通さを自覚できるほど優秀であることだ。
高田里恵子『グロテスクな教養』ちくま新書・9-10ページ)

「東洋の奇跡と呼ばれた戦後日本の高度経済成長、その陰には、名もなき男たちの熱い戦いがあった」というのがテレビドラマ『官僚たちの夏』の宣伝文句である。
 エリート官僚というのは挫折を知らないなどといわれるが、そもそも官僚になどなったのが人生最大の挫折ではなかろうか。
 神童などといわれ、歴史上の偉人に自分を重ね合わせて生きてきた元・天才少年が、衆愚の幸福のために骨身を削ろうなどと本気で考えるものだろうか。たとえ国家的な働きをしようが、バカな大衆は誰もそれを知らず、尊敬もされず、「名もなき人」で終わるのだ。
 これほどの屈辱はあるまい。そんな不満が、ノーパンしゃぶしゃぶ天下りにつながるのかも知れない。
 東大卒のタレントや幸福の科学の教祖を嘲笑する声の中に、あるいはテレビのバカ番組で白痴的に振舞う医者や弁護士の姿に、有名人にさえなれなかった「たんなるエリート」たちの嫉妬と羨望の思いがいくらか反映しているような気がする。

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

*1:『ハイスクール1968』の内容は事実に反しているとして、当時を知る同窓生から、「出鱈目書くな」「大法螺吹き」など、四方田に対して手厳しい批判があるようだ。