ドラマ『落日燃ゆ』

テレビ朝日のドラマ『落日燃ゆ』を見ました。
城山三郎の『落日燃ゆ』を原作としたもので、廣田弘毅を主人公としている。
先週見たNHKのドラマ『白洲次郎』と時代がかぶることもあって、なかなか楽しめました。テレ朝はあえて同じ時期にこの企画をぶつけてきたのかな。
両者とも、評価の難しい人物で、単純な右翼・左翼という枠では、とらえきれないところがあります。
白洲次郎でいえば、天皇陛下からの贈り物をぞんざいに扱われたことでマッカーサーを怒鳴りつけるというナショナリストぶりに喝采を叫んだ人は、では彼が徴兵を逃れたことをどう考えるのか。
広田弘毅でいえば、戦争を必死に回避する努力をしてきたにもかかわらず東京裁判で絞首刑にされたわけで、A級戦犯を極悪人にしておきたい左翼にとっては困った存在であろう。
まあ、ドラマの出来はともかく、いろいろ考えさせる内容でした。

白洲次郎とともに、というか、その妻の白洲正子もカリスマ的な人気がある。
しかしまあ、白洲正子『私の百人一首』という本については、「風」こと百目鬼恭三郎が『風の書評』(ダイヤモンド社)のなかで、こう批判している。

白洲本は素人の勉強のレポートといった感じがつよい。しかもその勉強はちょっと不足のようで、小野小町の「花のいろは」の歌の項で、小町の伝説について説明するうち、『伊勢物語』の九十九髪の歌が深草少将の九十九夜通いつめたという伝説を生んだ、などという馬脚をあらわしている。深草少将の百夜通いの伝説が、古今集の「あかつきのしぎの羽掻き」の歌から出ているぐらいの知識がなくて、百人一首の本を書こうというのは、ちと大胆すぎはしないだろうか。
(『風の書評』17ページから引用)