死刑廃止教

香西秀信『論より詭弁・反論理的思考のすすめ』に、こんな記述がある。

香西氏は「人と論とは別ではない」という考えから、次のようなケースをあげる。

まず、死刑廃止を主張した一本のテープを用意する。
そしてこれを無作為に分けた二組(AB)の聴衆に聞かせ、その内容に対する賛否を問う。

ただし、その死刑廃止論の語り手については、それぞれ次のような、異なった説明をしておく。

A 元最高裁判事。
日本法曹界の良心と呼ばれ、自身が幾度も死刑判決を出した経験から死刑廃止論者に転じた。


B 死刑囚
複数の快楽殺人で死刑を求刑されている殺人犯。
改悛の情を微塵も見せず、法廷では、遺族に対し、侮辱的な発言を繰り返した。

このような条件の下では、聴衆は、まず間違いなく、Aの話の方に、好意的な反応を示すだろう。しかし、そのテープの内容は、同一なのである。それなのになぜ、反応が異なるのか。

これについて香西氏は、次のように説く。

彼ら(聴衆)は、明らかに別の内容のテープを聞いたと考えるべきだ。つまり、それぞれの語り手のエートスが、同一の死刑廃止論を異なったテクストに変貌させたのである。

例えば、Aの聴衆は、その死刑廃止論に語り手の学識、経験、苦悩、思索等を読み込み、それが外見には表れない論拠を産出して、その主張を肯定するための論証に加わった。
Bの場合は、評価において、ちょうど逆方向に精神が働いたというわけだ。

このように、語り手は、語られた内容の一部である。
(前掲書145〜146より引用)


「死刑確定者は被害者のことで悩む・76人が調査回答」
北海道新聞 10/05)


死刑囚がいくら獄中で改悛しようと、それは市民団体が考えるような、死刑廃止の世論を喚起させることにはならないのではないか。
なぜなら、次のような考えが成り立つからだ。
死刑になったからこそ彼らは罪を悔い、被害者のことで悩むという「人間性」を得たのであり、もし死刑がなければ、はたして極悪人が、悔い改めることなどあるだろうか。

宮崎勤は、死刑廃止論者の弁護士に、自分の弁護を依頼する手紙を出していたという。(読売新聞の記事による)

もしも死刑囚が、死刑廃止を訴えたら、人々はどういう反応を示すだろう。死刑廃止を訴える市民団体は、犯罪者をそのメンバーに加えるだろうか。

「私は残忍な手口で、何人もの人を殺しましたが、自分が死ぬのはいやです。だから死刑には反対です」
たとえばこういう人間を、それでも救わねば、と考える人たちの使命感とは何か。
人道主義か、慈悲か、人類愛か。