若きヒトラーの肖像

メノ・メイエス監督『アドルフの画集

ヒトラー 〜最期の12日間〜』というのが、長くて退屈な映画だったので、なんかヒトラーを人間的に描いていて、抗議されたらしいけど、史実に忠実であることと、人間性を描くことは、別のことだと思うのですが。

それで『アドルフの画集』は、画家を目指す若きヒトラーを主人公にしてますが、フィクションでして、それでもヒトラーの人間的な面が、よく表現されていると思いました。

最初は素朴な絵を描いているヒトラーですが、ユダヤ人の画商からそれでは売れないと言われ、今はこういう芸術がウケるんだ、と見せられたのが、マリネッティらの「未来派

未来派」は、近代における画期的な芸術運動で、ジョルジュ・ソレルの「暴力論」に影響を受けて、スピード、暴力、戦争、などあらゆる破壊的な行動を、新しい美だとした。

「爆音をとどろかせるレーシング・カーは、(略)サモトラケのニケの像(古代ギリシアの石像)より美しい」
マリネッティ未来派創立宣言」より)

イタリアで発生したこの過激な芸術運動は、ファシズムの政治運動と結びつき、一部の芸術家は、右翼行動団体のメンバーとなる。

またドイツでは、「ダダ」が起こり、秩序や常識を、否定し破壊する思想が生まれる。

チューリッヒ・ダダの主導者ツァラの言葉によれば、
「ダダは何も意味しない」
「私は良識を嫌悪する」
「破壊と否定の大仕事をなしとげるのだ」

「ダダ」の芸術家らは、未来派のようにファシストになることはなかったが、それでもその「破壊と否定」の思想は、ナチスによって遂行されていく。

アドルフの画集』では、そのあたりがうまく描かれていて、売れない画家のヒトラーは、画商の助言に従って未来派風の絵を描くとともに、困窮した生活から抜け出そうと、陸軍将校に誘われ、反ユダヤの演説を引き受ける。

やがてそれらが結びつき、「政治こそが芸術だ!」と覚醒するに至る。

ヒトラーが政治家にならず、そのまま画家になっていたら……、という想像は、あまり意味がない。
野心家の青年が、素朴な風景画や静物画を描くだけの、清貧な暮らしに満足できるだろうか。

あの時代、思想や芸術で社会を変えようと思ったら、未来派やダダに、感化されただろう。その後の若者たちが、ロックに熱狂したように。

「戦争とは、世の中を衛生的にする唯一の方法なのだ」
そう主張した芸術家たちに、戦争責任はないか。

思想や芸術で社会を変えようとすることと、銃で社会を変えようとすることに、
本質的なちがいはあるか。