ソムリエ(笑)

永井均『マンガは哲学する』(講談社

やさしい文章で書かれているが、内容は濃い。
『<子ども>のための哲学』を読んでない人には、わかりづらい記述もあるだろう。

書評されているマンガは、どれも興味深いが、小林よしのり『戦争論』のような作品には、「哲学的態度がない」と切り捨てている。

世の中にすでに公認されている問題において一方の側に立ってしまいがちな人は、それがどのような問題で、どちらの側に立つのであれ、哲学をすることはまず不可能である。

哲学は、ほかに誰もその存在を感知しない新たな問題を一人で感知し、誰も知らない対立の一方の側に一人で立って一人で闘うことだからである(この闘いの過程や結果は世の中の多くの人々からは世の中ですでに存在している問題に対する答えの一種と誤解されてしまうのであるが)
(あとがきから引用)

右翼、左翼、フェミニズム、動物愛護…、なんであれ、立場のはっきりしている人の話がつまらないのは、そういうことです。

で。そういう深いテーマとはあんまり関係ないところで、面白い記述があった。
城アラキ『ソムリエ』を評して、永井均は、ソムリエという仕事が存在しうることが、不思議である、という。

私の疑問は、ソムリエがどんなに微妙な味を感じ分けることができても、主たる仕事が料理にあった銘柄の選択にある以上、それは客観性の内部で完結している、という点にある。
ソムリエの感じる味そのものは、この「ソムリエ・ゲーム」にとって非本質的な役割しか演じていないのではあるまいか。
<略>
若い官僚に業者が取り入ろうとするような接待の場面で、前菜がタラトゥィユのグラタン、主菜がカサゴポワレと小鳩のロティのとき、どういうワインがふさわしいか、といったことが問題であるなら、ソムリエの味覚識別能力は何のために必要なのであろうか。

ひとりひとりのソムリエが自分の舌で感じるコート・ロティや
シャサーニュ・モンラッシェの味そのものは、このゲームに関与しない。
ワインについての深い知識と抜群の人間観察力さえあれば、原理的にはワインを一滴も飲んだことがなくても、最高のソムリエになれるのだ!
(39ページから引用)

まあ、おれは、ソムリエのいるレストランでなんか、ほとんど飲み食いしたことないんだけど、江川卓みたいなやつに、「赤ワインというのは、血液をアルカリ性にするんです」とか言われると、それだけで飯がまずくなりますね。

あと、これは余談であるが、エレベーターガールというのも苦手だ。
エレベーターの中で、エレベーターガールと二人きりになったときの、気まずさといったらない。
「おれは、安全な人間ですから」
「いやらしいことなんか、ぜったい考えてませんから」
とか、思いながら、
「あー、はやく5階に到着してくれー」とか、なんでエレベーターでそんなに気を使わせんだよ!

エレベーターガールという仕事が、存在しうることが、不思議である。

もしかすると、彼女たちによって富士山の噴火が、おさえられているのかも知れぬ。