コンテクスト・オブ・ザ・デッド

 羽田圭介『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』を読む。
 コンテクストとは文脈という意味であるが、わかりやすく言えば「お約束」のことである。
 お笑いもライブも映画もスポーツも、世の中は「お約束」だらけである。「お約束」に従うことで、我らは一体感を味わう。ライブハウスで、劇場で、スタジアムで、我らは同じ曲で踊り、こぶしを振り上げ、同じボケで笑い、同じ不正に怒り叫び、同じ悲劇で泣く。しかしひとたび劇場を出ると、そんな「お約束」に従っていた自分の姿にふと恥ずかしさを覚える。それでもまた劇場に行けば、「お約束」に従って、みんなと同じことをする。
 我らはそんな「お約束」をバカにしつつ、しかしそこから逃れることができない。この小説自体が、もはや「お約束」だらけのゾンビ映画の設定を借用しつつ、そこから逃れられないように。
 主人公の晶は、ゾンビに追われてスタジアムに逃げこむのだが、そこで目にするのはコミケニコニコ超会議を思わせる「ありとあらゆる内輪的なもの」の祭典だった。
 最初は嫌悪するが、すぐに「お約束」がわかり、それが対象への理解へと変わり、やがてハマっていく。コンテクスト(文脈)を学習し、理解し、それに浸ることの快楽と、ぶきみさ。あの感覚。
 そんな「お約束」に支配された我らの、描き方がうまいと思った。(以下引用)

 アリーナへ下りた晶はメインステージの前へ向かった。女性アイドルグループのコンサートが行なわれているが、誰なのかはわからない。係員から単色刷りのビラをもらったが、見たことも聞いたこともない五人組アイドルグループだった。サイリウムや団扇を振ったりして踊る客たちの合間を縫い前方まで進むと、二〇歳そこそこのアイドルたちは顔面レベルがそこらの一般人と変わらず、そのうち一人はあきらかに劣っていた。性欲という本能的に惹きつけられる要素が欠如し、かといって他の要素がすぐれているわけでもなく、歌は下手でダンスの切れも悪いから生理的にうったえかけてくるわけでもない。しかしながら観客たちは熱狂している。見続けていると、二曲終わったところでMCが始まった。アイドルたちによる全然知らない呼びかけに対し統率のとれた客たちが全員右手で狐の形を作る謎のジェスチャーと大声で返し、周りの雰囲気にのまれ晶も真似た。各メンバーには役割分担があるらしく、人気者、根暗、無知、高圧的、アバズレというキャラクターに加え、誰と誰の中が悪いだとか誰が誰を尊敬、メンバー全員味噌きゅうりが好きで、「思いが伝わるアイドル」として全ファンレターに全員が目を通している等、色々と面倒くさい設定だらけだとわかった。
 だが不思議と、無名の彼女たち独特の個性や出自という、ぱっと見だけでは読み取れない情報を能動的にくみ取ってゆくほどに、応援したい気持ちが沸いてくるのだった。目で見ることも耳で聞くこともできない、存在しない魅力がそこにはある。普通の人には理解できないそれを読み取れていること自体に充足感を覚えた。二〇分足らずの短時間でハマりかけてしまったことにふと戸惑いを覚えた晶は、ステージから離れた。(368-369頁)

 近くの小さなステージ上から男二人の掛けあいの声が聞こえてきており、近寄ると、芸能やサブカルチャーを切り口に社会を斬っていた。しゃべっている三〇代くらいの二人は有名人なのかと思い晶がステージ上のパネルを見ると、「僕たちの終わりなき世界」というタイトルの両端に「あの新進気鋭社会学者」と「あの大物ネット論者」として二人の名前がデカデカと掲げられている。
「だから誰なんだよ」
 晶の小さなつぶやき声はかき消される。すると三〇代くらいのカップルが晶の隣にやって来たが、「誰?」「知らない」とその二人も社会学者とネット論者のことを知らないようだった。誰も知らない社会学者と誰も知らないネット論者はやたらと「僕たち」とか「我々は」という文言を多用し、日本に生きる現代世代を勝手に代弁し色々としゃべっていた。「僕たち」や「我々」の中へ勝手に俺を含むんじゃないよとはじめは反発しか覚えなかった晶だったが、ところどころで世代の空気感を象徴するアニメやマンガ、Jポップ等のキーワードがちりばめられノスタルジーに浸り、そして自分の抱えている鬱屈をうまく言い表してくれた場面に何回か遭遇するうち、気づけば真剣に聞き入っていた。晶はさっきまで知りもしなかった「あの新進気鋭社会学者」と「あの大物ネット論者」に対し、もっと僕らの世代を象徴する話題を引っ張り出しそこから今の世の中や上の世代を斬ったりして欲しいと切望していた。(371-372頁)

コンテクスト・オブ・ザ・デッド

コンテクスト・オブ・ザ・デッド

永井愛のザ・空気

 永井愛の芝居はどれもくだらないが、『ザ・空気』もひどかった。テレビ局の報道番組のスタッフが、番組改編の圧力を受けて、おろおろするだけのばかげた話である。
 その圧力というのも、報道特集番組のコメントを変えろだの、政府批判のシーンをカットしろだの、たかがその程度のことである。
 永井愛は、従軍慰安婦問題を裁く民間法廷を扱ったETV特集が上層部の指示で改編させられた事件にショックを受けたと言いながら、この芝居には、従軍慰安婦天皇も一切出てこない。
 それで報道の自由を描いたつもりか。ばかばかしい。スポンサーや大手芸能事務所にさえ逆らえないテレビ局に、政権批判などできるわけがない。
 登場人物も筋書きも、みなマンガである。正義感の強い女性キャスターが出てきて、「凄い時代になったねぇ、あちこちで民主派が敗北していく。理性や知性が、どんどん通用しなくなっていく」などと歯の浮くような台詞をしゃべるのだ。自分にはよほど理性も知性もあると思っているのだろう。
 それでこの芝居のラストが暗示する未来では、憲法が改正されて、自衛隊国防軍になり、緊急事態法なるものが成立するのだ。内閣は超法規的な権力を行使できて、ジャーナリストはみんな特定秘密保護法共謀罪によって処罰される世の中になっているというのだ。
 左翼ばばあの妄想である。壮士芝居である。ああ、日本はおしまいだ、などと背筋を凍らせる観客もおろかである。
 こんなくだらぬ芝居が、読売演劇大賞である。政権に忖度している新聞社が主催する賞をよく貰えるものだ。しょせん、その程度の報道批判である。
 何度でも書くが、私は永井愛の芝居をひとつもおもしろいと思ったことがない。永井愛に忖度する者ばかりだ。くだらぬものを、くだらぬと言えないのだ。
 そういう演劇界こそ、ザ・空気である。

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ザ・空気

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